25年6月22日_恐れ

説教と証し

この詩は、サウルに負われているダビデが、ペリシテのアキシュに避けて行った時、書いた詩であります。当時のペリシテはイスラエルの敵だったし、イスラエルより強かったです。サウルの手が届かない所だったのでダビデはペリシテのアキシュに避けることにしたのです。

しかし、アキシュの家来たちの疑いと反対が強かったので、ダビデはペリシテ人の手に殺される危機に陥りましたが、狂ったふりをしてやっと危機から逃れられます。イスラエルの王になるダビデがイスラエルの敵であるペリシテに避けただけでなく、いつも堂々としていたダビデが危機から逃れるために狂ったふりまでしたとうことです。これが、ダビデの人生の大きな恥と後悔と残りました。

ところで、ダビデをそうならしめたのが何だったでしょうか。それは、恐れでした。恐れは、否定的な言葉とか否定的な状況が続くとき生じます。他の人から自分に 対する否定的な話を聞くと初めには、それは事実ではないと思って受け入れません。しかし自分に対する否定的な話を繰り返して聞くようになると、いつの間にか、[本当にそうなのか]と思いながら、その否定的な言葉を信じて受け入れるように なります。

また問題が起こったら、私たちはそれを信仰によって乗り越えるために努力します。しかし問題が繰り返して状況がよくならず苦難が続いたら、私たちの信仰も影響を受けます。それでその問題と否定的な状況が自分を不幸にするだろうと思うようになります。

私たちは恐れに陥ってその恐れが私たちの心を支配する前に恐れから逃れなければなりません。なぜなら恐れは破壊力があまりにも大きいからです。恐れは私たちのアイデンティティーを忘れさせて、また私たちの目をふさいで神様を見られない ようにします。

聖書には、そのように恐れに支配させてすべてを失った人の話が書いてありますが、Ⅰ列王記を読んでみれば、預言者エリヤは、バアルとアシェラの預言者850人と対決して勝ちました。それいよって神様だけがまことの神であることをイスラエルの 民の前で表しました。しかし、それにもイスラエルの王アハブとその妻イゼベルは神様を恐れず、むしろもっと邪悪になります。結局信仰を失ってあきらめた方は、エリヤでした。エリヤは神様の素晴らしい力を見ても悔い改めないイゼベルに勝つ自信がなかったし続いているイゼベルの窮迫に恐れを抱くようになります。それで素晴らしい勝利を経験したのにも信仰と勇気を失って自分を殺してほしいと神様に祈ります。

恐れがエリヤを支配すると自分がどんな存在なのかも忘れて、神様が自分を通してどんなことをなされたのかも忘れてしまいました。これが恐れの破壊力だという ことです。

申命記を読んでみれば、カナンの地を偵察した10名の人は、カナンの地を偵察しながらその地の巨人たちを見るようになり、彼らの高い城壁と強い武器を見るようになります。現実を見るようになったのです。自分たちには頼れる城壁もなく武器もなく訓練された兵士もないのに、彼らと比較される自分たちの姿と現実のゆえに 否定的な考えるするようになり、結局その否定的な考えは恐れに発展されます。 信者の武器は神様の御名であり、信者が勝利できる理由、信者の勝算は、神様の 約束にあるのに、目の前の状況と比較される現実を見ながら、恐れが生じました。そして、その恐れに支配されると彼らは、神様の民というアイデンティティーを 失ってしまって、敵の前で自分たちはイナゴのような存在だと自ら卑下してしまいます。このように恐れは、信者のアイデンティティーを忘れさせて、また、信仰の目を塞いで神様が見られないようにする破壊力があるから、私たちは恐れを早く 解決しなければならないということです。

それなら恐れを克服する方法は何でしょうか。大きく三つに分けて調べてみますが、[恐れを克服する一番目の方法は、祈りです。]

本文3節です。

3 恐れのある日に、私は、あなたに信します。

ダビデは、恐れのゆえにペリシテに助けを求めた自分の姿に失望して、危機から 逃れるために狂ったふりをした自分の姿が恥ずかしかったです。それでこの経験を通して一つ原則を立てます。どんな理由であっても、自分の内に恐れが生じたら、いつ、どこででも、主に頼りながら祈ることに決心します。

コロナを経験した後には、マスクをつけるのが当たり前の習慣のようになりました。風をひいて咳が出る時や人が多い所で病気が移るのではないかと心配になる時、 私たちは当たり前にマスクを出してつけます。なぜなら、マスクをつけば病気から自分を守れることを知っているからであり、病気にかかった後に治療することよりマスクをつけて予防することが、ずっと被害が少なく有益だということを経験的に知っているからです。

ダビデは、否定的な考えが自分をどれほど疲弊させるのか知っていて、恐れというのがどれほど自分を無力にするのかを悟りました。それで、これからダビデは、 否定的な考えが生じて、心の中に恐れが押し寄せてくる時は、無条件祈ることにします。

私たちがマスクをつけることによって病気から自分を守ることのように、ダビデは、否定的な考えと恐れが臨む時、祈りを通して自分を守ることにしたということです。なぜなら、恐れに支配された後に回復するより、祈りを通して否定的な考えを遮断して、恐れを芽のうちにつむのが、ずっと有益だということを知っていたからです。

ピリピ4章6節と7節は言います。

6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いに    よって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを  キリストイエスにあって守ってくれます。

なぜパウロは、何も思い煩わないで祈れば、神様が私たちの問題を解決してくれると言わなく私たちの心と思いを守ってくれると言うのでしょうか。恐れと思い煩いは、ほとんど同じことです。思い煩いは、実体のない否定的な未来を心配する心であり、実際ではなく、心の中で起こる考えであります。だから、私たちが神様に 祈れば、神様が私たちの心を神様の平安で満たしてくださって私たちの心と思いを恐れと思い煩いから守ってくださるということです。

だから、心配と思い煩いが私たちの心を満たして、恐れが押し寄せる時、私たちにできる最善の方法は、すべてを主に委ねて祈ることだということです。

[恐れを克服する二番目の方法は、愛です。]

Ⅰヨハネ4章8節です。

18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れを克服できる方法は、愛です。なぜなら、愛は、私たちの内の恐れを締め出すからです。カール・メニンガーという精神分析学者は、人間は自分に没頭して、 自分に集中する時、恐れが増加するそうです。

[自分が死んだら、どうしよう。]

[自分が失敗したら、どうしよう。]

[人々の前で、恥をかくようになったら、どうしよう。]

このように、自分に考えが集中され、すべての思考が自己中心的になる時、恐れも増加されるということです。しかし、自己中心的な思考から逃れる方法がまさに、愛です。愛は、自分に対する関心と自己中心的な思考を他の人に向けることだからです。

私たちは誰かを愛するようになった時から、その人を考えるようになり、すべての関心事と思いの中心がその人に変わります。[自分がこうなったらどうししょう]という考えから、

[どうすれば、あの人を喜ばせることができるか]

[あの人が、幸せだったらいいな]

このように、自己中心的な思考から他人中心的な思考に変わるのがまさに愛だと いうことです。

女性たちは、自分の姿が他の人にどう見えるかということが、あまりにも重要です。それで、髪の毛を洗わなかったり、化粧をしなければ、出かけたり、人に会えない人も多いです。なぜなら、自分の完璧でない姿が、他の人に見られるのを恐れる からです。それが悪いという話ではありません。元々美しさを追い求めるように 創造されたのが女性だということです。

しかし、そんな態度が完全に変わってしまって、他人の目線と評価という恐れから逃れるようになる契機がありますが、それは、母になる時です。子どもが生まれる時から、女性のすべては、自己中心から子ども中心になります。母は、子どもが 生まれる瞬間から、子どもが世界の中心になります。顔を洗ってなく、汚い着物を着ていても、外で子どもの鳴き声が聞いたら走って行きます。ゴキブリも怖がる 弱虫が、子どもを守るために火の中にも飛び込む勇士になります。愛が恐れを締め出すことです。

2023年統計によれば、2023年一年間、世界的に5千名のクリスチャンが殉教したそうです。拷問を受け、迫害され、目の前で愛する家族が殺されることを見ながらも、最後まで信仰を守りながら殉教できる理由は、イエス様を愛するからです。十字架を通して自分を救ってくださったイエス様の恵みを知る人、そのイエス様を本当に愛する人は、恐れを越えて信仰を守るということです。

皆さんの前にある問題と現実のゆえに心配になり、怖いですか。それなら私たちの問題と現実はイエス様に委ねて、私たちは愛を実践しましょう。自分ではなく、 イエス様に集中しましょう。そうすれば、私たちの内にあるその愛が、私たちの すべての心配と思い煩いと恐れを締め出すはずです。

 

[恐れを克服する三番目の方法は、恐れの対象を変えることです。]

箴言14章26節と27節です。

26 い信は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。

27 主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。

すでに申し上げた通りに、人や環境やある対象に対する恐れは破壊力があまりにも大きいから、その恐れが私たちの心を支配するようになったら、私たちは信じる者としてのアイデンティティーと信仰と権勢まで失ってしまいます。ところで、その恐れから逃れられる三番目の方法は、恐れの対象を変えることだということです。すなわち、人とか環境とかある対象を恐れることではなく、神様を恐れる人になる時、私たちは他のことは怖くない人になるということです。むしろ神様を恐れる 人には、いかなる場合でも平安を味わえる強い信仰が与えられ、神様を恐れる人のために、神様が避け所になってくださると聖書は言います。そして、神様を恐れることが命の泉と源になるから、人間の一番大きな恐れである、死に対する恐怖から逃れる素晴らしい力になるということです。

また、詩篇34篇7節で、ダビデが告白します。

7 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

主の使いが、主を恐れる者の回りに陣を張って、その人を守ってくれるということです。陣を張るという表現は、軍隊が戦いを準備する時使う言葉です。すなわち、主を恐れる者の救うために、天の軍隊が動員されて戦ってくれるということです。

これが、主を恐れる者に与えられる恵みであり、だから、私たちが恐れを克服する最も確実は方法は、恐れの対象を変えること、すなわち、神様だけを恐れることだということです。

いつかも申し上げましたが、神様を恐れるというのは、神様が罰を下されるのではないかと怖がることとは違います。自分が愛する人、自分に大切な人に対しては、人間関係においてもっと慎重にして、気を付けるようになるでしょう。なぜなら、そんなに大切な人との関係が壊れたり、遠ざかったらいけないからです。

神様を愛する人、神様と親密な関係を味わっている人ほど、神様との関係に問題が起こったり、神様との関係が遠ざかるのが怖いです。だから、そんなことが起こらないように、神様の心を推し量って、神様の喜ばれることをするために力をつくすことです。これがまさに神様を恐れるという言葉の意味です。結局、神様を恐れるというのは、神様を愛するという言葉と同じ意味なのです。

私たちが神様を愛して、神様を恐れる時、神様が私たちの力になってくださり、 避け所になってくださり、この世のすべての力と天にあるすべての権勢を働かせて私たちを守ってくださいます。だから、私たちが恐れを克服できる最善の方法は、神様を恐れることだということです。

私たちが人から苦しめられて、現実と状況が私たちを苦しめる時、神様は自分を 見てなく、関心もないように感じられる時があります。そして自分の祈りを聞いてないのではないかと思われる時もあります。

しかし、詩篇56篇8節で、ダビデは告白します。

8 あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私のを、あなたの   

皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。

悪者たちの偽りと悪行によって私たちが苦しめられて、さすらっているその時、 主は私たちの苦しみを知らないことではありません。むしろ主は私たちがどれほど苦しんでいて、その痛みのゆえにどれほどさすらっているか、その数まで数えて おられるということです。そして、悪者たちのように私たちが流している涙を忘れなく、主の皮袋にたくわえて、主の書に書いておられるということです。

私たちにとって神様がいなくてはいけない存在であるように、神様にとって私たちも、いなくてはいけない最も大切な存在であります。神様は、私たちの悲しみと 痛みを知っておられ、いつも私たちの祈りに耳を傾けておられる方であります。

カール・メニンガー博士は、[恐れは、生れつくのではなく、学習されるのだ] と 言いました。すなわち、私たちが恐れを克服する方法を学んでおけば、否定的な 考えと恐れが訪れる時、それをうまく管理して、乗り越えることができるはずです。しかし、そうじゃないと私たちは同じ状況が繰り返される度ごとに、恐れに支配されるようになり、実体もない思い煩いに引っ張り回されるはずです。

恐れが私たちの心と思いを支配することがないように、イエス様を愛し、イエス様を恐れながら、イエス様に祈ることによって、その恐れを克服し、恐れに打ち勝つのぞみ家族になることを、イエス様の御名によって祝福致します。