詩篇55篇は、ダビデが愛して信じていた人たちから裏切られた時、その辛い心を 神様に告白しながら書いた詩であります。ここでダビデが愛して信じていた人とは、ダビデの愛する息子アブシャロム、そして長い間ダビデと一緒に命をかけて戦ったダビデの仲間アヒトフェルを言います。
自分の息子が自分を殺して王になろうとして、命をかけて戦った仲間が誰よりも 自分の弱点をよく知っている敵になって現れた時、ダビデはどれほど絶望したでしょうか。たぶん、どう祈れば良いかも分からないほど悲惨な気持ちだったでしょう。
ダビデは、切迫した気持ちを持って神様に祈りました。しかし、なぜなのか神様は何も言わなく、答えてくださいませんでした。
本文1節です。
1 神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さないでください。
ダビデが悲しみの中で切に祈りましたが、神様は、まるでダビデの祈りを聞いて くださらなく、自分から隠れておられるように感じられて苦しかったです。
私たちも信仰生活の中でたまにこんなことを経験する時があります。大変で苦しいから神様に祈ったのに、神様は何も話してくださらなく、助けを求めながら祈ったのに、何も起こらない時があります。他の人たちの証しを聞いてみれば、神様は 彼らの祈りには答えてくださったり、奇跡を起こして助けてくださったと話して いるのに、なぜ自分は、いかに祈っても答えられないのでしょうか。自分も神様の奇跡を期待しながら祈ったのに、なぜ神様は、自分のためには何もしてないように感じられるのでしょうか。皆さんは、そう思ったことがないですか。
ところで、そのように神様の愛を疑って、神様を恨む人が、私たちだけではないということです。信仰の人であり、神様の心にかなっている人だと言われるダビデも、時には祈りがすぐ答えられなくて信仰が揺れた時もあり、神様が隠れておられると感じた時もありました。すなわち、私たちの祈りがすぐ答えられず、自分が願った通りにならなくて苦しんでいるのは、すべての信者に起こることだということです。
ところで私たちが切に祈っても主がすぐ答えてくださらないことには、いくつかの理由があります。
一番目に、その時が、神様の思われる最善の時ではないからです。
すべての問題と苦難には、目的があると何回も申し上げました。というのは、 私たちは、自分の前にある問題を解決するのが一番重要なことだと思いますが、 神様に重要なことは、別にあるかもしれないということです。
神様は問題と苦難を通して私たちに成し遂げようとされる目的があります。だから神様にはその問題が解決されることより、その問題を通して私たちに神様の御心が行われること、すなわち私たちが神様の願っておられる人になることが、ずっと 重要なことだということです。それで、その御心を成し遂げられるために、時には私たちが切に祈っても、すぐ答えてくださらない時があるということです。
しかし、神様が答えてくださるまで時間がかかっても、心配する必要はありません。なぜなら神様は、私たちのための最善のことが何なのかを知っておられるからです。
ローマ8章28節で、パウロはこう言いました。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
私たちを愛される神様は、絶対に遅れないように私たちに答えてくださるはずだし、神様が働かれるその時が、全てが完璧に解決される最善の時になるはずだからです。私たちの考えでは、もう遅すぎたようで、失敗したと思われるかもしれませんが、神様は、答えが遅くて、状況が不利になって、失敗したように思われる、その状況まで働かせて益にしてくださる、全能なる方であることを信じなければならないということです。
二番目に、私たちが祈っても神様がすぐ答えてくださらない理由は、すべての祈りには、決められた分量があるからです。
昔、あるインディアン部族は、雨が降らない時に、自分が信じる偶像に雨乞いを したそうです。驚くべきことは、その部族が雨乞いをしたら、必ず雨が降ったそうです。現代科学でも、雨を降らせるのは不可能なことなのに、いったい彼らは、 どんな雨乞いをして、雨を降らせたでしょうか。その秘訣は、彼らは一か月が かかっても、一年がかかっても、雨が降るまで休まず雨乞いをしたからだそうです。だから彼らは自分たちが雨乞いをしたら、必ず雨が降ると思うようになったということです。
彼らの確信と行いは愚かなことでしたが、彼らを通して私たちが学ばなければならないことがあります。それは、彼らはあきらめずに、信じて祈り続けたということです。私たちの祈りはどうですか。私たちは、彼らのようにあきらめない信仰を 持って神様に祈り求めていますか。彼らは偶像を信じながらもそんな信仰を持って祈ったのに、神様を信じる私たちは、彼らのように神様を信じて祈っているかと いうことです。
黙示録を読んでみれば、聖徒の祈りを祭壇の香として描写しています。私たちが 祈れば、その祈りが香になって祭壇の香炉に満たされます。そして、その香炉が 満ちたら御使いがその香炉に満ちている香を地上に投げつけます。すると私たちの祈りが答えられることです。すなわち、私たちの祈りが答えられるためには、決められた分量だけ祈らなければならないということです。しかし、多くの信者たちが祈った後、すぐ答えがなければ、[やはり、神様は私の祈りは聞いてくださらない] としながら失望して、祈りをあきらめます。
これは、聖書にある話ではないですが、ただ私たちを悟らせるために、ある先生が話したことです。ある人が天国に行ったら、ペテロが自分を迎えに来て、天国を 案内してくれました。ところで、その人が見ると他の倉の何十倍もなる大きな倉がありました。それで、その人がペテロに、ここは、何を入れておく倉なのか聞いてみたら、ペテロがこう答えました。
[この倉は、祈りが満たされなくて答えられなかった、祈りの香炉を入れと置いた 倉です。]
もちろん、聖書にある話ではないですが、この話を通して私たちは一度考えてみる必要があります。皆さんの人生には半分しか満たされず、捨てられた祈りの香炉がどれぐらいあるでしょうか。私たちが祈りを始めた時から、神様は答えを備えて 置いたのに、私たちがあきらめることによって、答えられなかった祈りの課題が どれほど多いかということです。私たちが祈っても答えられない理由は、まだ 答えに必要な祈りの分量が、少し足りないせいかもしれないということです。
イエス様は言われました。
[祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。]
神様は、私たちが祈りを始めた瞬間から、答えてくださることを約束されました。それなら、私たちの祈りが答えられないのは、神様が約束を破ったからでしょうか、さもないと私たちが信じられず、祈りをあきらめたからでしょうか。イエス様は、それが何でも私たちの祈りに答えてくださると約束されました。その約束を信じ、あきらめない信仰に持って、自分の祈りの香炉を満たす、のぞみ家族になることを主の御名によって祝福致します。
本文6節と7節です。
6 そこで私は言いました。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。
7 ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。セラ
人に裏切られて傷ついたら、人が一番怖くて人間関係をすることが負担になります。自分の前で笑っているあの人は、他の人の前では私に対して何の悪口をするだろうという疑いがして心がとても苦しいです。それで、当分の間は人に会いたくない 時があります。
ダビデは、愛して信じていた人たちに裏切られたのがあまりにも苦しくて、その 状況を逃れて休みたかったです。ところで、おかしいことは、ダビデが飛び去って休みたかった所が、どこだったですか。荒野でした。荒野は楽に休める所ではありません。むしろ荒野は、苦しみと苦難の象徴でした。さらに、聖書に出てくる人の中で、ダビデのように荒野の生活が長かった人もなく、ダビデのほど長い間荒野で苦難を受けた人もいません。それなのに、荒野に飛び去って休みたいというのは、いったい何の意味でしょうか。
荒野は寂しい所であり、苦難の所ですが、また荒野は神様との出会いと交わりが ある場所でもあります。ダビデにとって荒野の時間が、ただ寂しくて苦しかった 所でしたら、彼が荒野を浮かべながら休むことを想像することができたでしょうか。ダビデは何もない荒野で神様に頼りながら毎日新しく注いでくださる神様の恵みを経験しました。また、誰も信じられず、誰も頼れる人がいなかったですが、荒野の真ん中でダビデは、自分を理解してくださり、慰めてくださる神様と交わりました。だからダビデにとって荒野は苦しみの所でなく、回復の所であり、慰めの所であり、恵みの所だったのです。
いつか大変で苦しいことがあって祈っている間、昔、私が苦難の中で大変だった 時が思い出されました。当時には、あまりにも大変で、毎日苦しいと思いましたが、今考えてみると、その時の自分がどれほど幸せだったのかを悟るようになりました。できるならば、自分の人生を全部上げて再びその時に戻って行きたいと感じるほど、その時の自分が、神様の恵みの中で幸せだったということを後で悟るようになりました。時間が過ぎて、その時の苦難を神様の恵みであり、幸せだったと記憶する ことができたのは、その時をイエス様とともに過ぎたからであり、イエス様の恵みによって乗り越えたからです。
明日のことも知らない愚かな私たちは、現在自分の前にあるこの苦難が意味する ことが、そしてこの苦難の結果が祝福なのか災いなのか分かりません。今の苦難が全部過ぎて後に、今の時間が神様の恵みだったのか、ただ苦しみだったのかを知ることができます。
イエス様に頼りながら今の苦難を過ぎる人は、いつか今の苦難が主とともに歩んだ祝福と恵みの時間だったと告白するはずです。結局、今の苦難を祝福と恵みの時間とするか、さもないと苦しみと悲しみの時間にするかは、今を生きている私たちの信仰にかかっているということです。
本文、詩篇55篇22節一緒に読みます。
22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。 主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
神様は私たちを愛される方ですが、だからといって私たちが受ける試練を免除してくださることはありません。
イエス様は、弟子たちが会うようになる嵐を避けさせることではなく、むしろ嵐に会った弟子たちが、イエス様に頼ることによってその嵐を乗り越えるように彼らを導いてくださいました。それで、もはや弟子たちは、どんな嵐に会ってもイエス様だけに頼れば、克服できるということを学ぶようになりました。
神様は、イスラエルの民をもって楽で安全な道に導かれず、むしろ逃げ道のない 突き当りに導かれました。後ろからエジプトの軍隊が追っていて、前には渡れない海が民を阻んでいました。しかし、神様は、彼らの前の海を分けて道を作られ、 目の前でエジプトの軍隊を滅ぼされることによって、神様がどれほど素晴らしい 方なのかを見せてくださいました。
このように神様は私たちが受けるべき試練を避けさせることでなく、むしろ試練と苦難を乗り越えるように信仰と恵みをくださる方です。弟子たちが経験した嵐も、またイスラエルを阻んでいた海も、彼らには不可能な現実であり、自分ではどう にもできない重荷でした。しかし彼らがそれを神様の御前に下ろして、祈りながらそれを神様に委ねた時、神様は彼らのために働いてくださいました。
朝鮮戦争の時ある米軍の人が経験したことです。その人がトラックに乗って部隊に帰っていましたが、ある女性の方が、頭の上に自分の体より大きな荷物を負って 歩いて行くことを見ました。彼は車を止めて彼女を車に乗せてくれましたが、なぜなのか車に乗った後にも頭に負っている大きな荷物は下ろしませんでした。それで彼女に聞いてみると、彼女は、自分を車に乗せてくれたことだけでもありがたい のに、どうして自分の荷物まで下ろすことができるかと言いながら、最後までその荷物を下ろさなかったそうです。
その人が彼女を車に乗せてくれた時には、彼女自身だけでなく、彼女の重荷も 一緒に解決してくれるつもりだったでしょう。それと同じく、イエス様が十字架の上で私たちを救われる時には、私たちの罪だけでなく、私たちの人生と私たちの 重荷まで解決してくださるために、私たちを救ってくださったのです。
だからイエス様は、マタイ11章28節で、こう言われました。
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。
イエス様は私たちのすべてを解決してくださるために十字架にかかってくださったのに、私たちは荷物を下ろせない女のように、自分の重荷を下ろすことができないのではありませんか。イエス様は、私たちを幸せにするために、多くの約束をくださって、それを聖書に書いておられたのに、私たちは相変わらず、イエス様を信じれば、死んで天国に行くという、その信仰から一歩も進めないのではありませんか。
私たちが持っている重荷を、イエス様の持っていきましょう。そして、イエス様に委ねましょう。するとイエス様が私たちの重荷を負ってくださり、私たちの前の 苦難が苦しみではなく、祝福と恵みに記憶されるように恵みを授けてくださるはずです。
イエス様は疲れた人、重荷を負っている人は、イエス様に来なさいと言われました。私たちを休ませるイエス様に会うためには、イエス様に行かなければなりません。ところで、私たちがどこかに行くためには、先に今留まっている所を離れなければなりません。自分の現実、自分の仕事、自分の心配と忙しい日常を離れて、主が おられる所に行かなければならないということです。そこが、教会であり、また、皆さんが隠密にイエス様に祈る、祈りの所です。
新しく始まるこの一週間も、イエス様に進み行き、あきらめない信仰によって祈ることによって、私たちを休ませて、私たちを最善の道に導いてくださるイエス様の恵みを味わうのぞみ家族になることを、主の御名によって祝福致します。