ダビデがサウルを避けて逃亡者の身になった時、ダビデは、町で留まらなく荒野や洞穴やホレシュに留まりました。ホレシュは、韓国語聖書では森と翻訳してますが、私たちが知っている森の概念とはあまり違うから言語のままホレシュと表現したのです。自分のせいでノブの祭司たちが殺された記憶があるから、町で留まることができず、人のいない荒野や洞穴で留まったのです。
ダビデがユダ部族に属したジフという地域の荒野で留まった時がありましたが、 彼は、自分と同じユダ部族に属した地域だったのでジブなら当分の間は安心してもいいじゃないかと思いました。
外国に出てみれば、知る人もないし、頼れる所もないから緊張して不安な気持ちがあります。しかしそこで自分の国の人に出会ったら、すぐ親しくなります。初めて出会った人であっても同じ国籍を持っているということだけで慰めになり、頼る ようになるということです。
ダビデもそうでした。自分と同じ部族だからジフの人たちとすぐ親しくなり、彼の悔しい事情を聞いて理解してくれたから、ダビデは慰められたはずです。だから 彼らに頼りたい心が生じたでしょう。しかし、ダビデの期待とは違って、ジフの 人たちは、サウルに行ってダビデが隠れている所を言いました。そしてダビデは 再び危機に陥ってしまいました。これによってダビデは失望と衝撃を受けて、この詩を書きました。
私が幼い頃、幼稚園で映画を観に行ったことがありました。ところで映画を観て 外に出たら、当時の大統領候補であった一人に会いました。その人は、幼稚園の 子ども一人一人に握手をしてくれました。テレビで見た人と握手をしたという理由で、何か心の中でその人との親密感が生じたし、その時からその人が政治家の中で一番いい人だと思うようになりました。まだ、幼い子どもだったからそう思ったんでしょうか。選挙のシーズンになったら、候補たちが町に立って人々と握手をする理由があります。心理学では握手とかスキンシップしたらその人に対する肯定的なイメージを持つようになり、相手が自分の見方になったような感情を持つように なるそうです。だから、票を得るために選挙のシーズンだけ人々と握手をすることです。
とにかく、人間は、こんなに小さなことでもいい感情を持つようになり、頼ろうとする傾向があるということです。あの人は自分と同じ地域出身だから、あの人は、自分に対して好意的な人だから、あの人は、たまにコーヒーも飲む関係だからと 言いながら、あまりにも簡単に人を信じて期待するということです。
だから頼れる所のなかったダビデが、自分と同じ部族の人たちにあって彼と交わりながらどれほど彼らに頼るようになったでしょうか。
しかし、残念なことは、人に対する私たちの信仰が、必ずしも信仰に戻ってくるのではないということです。私たちは、自分が誰かに恵みを授ければ、相手も自分に恵みを授けることを期待します。そして、自分が授けた親切ほど、親切な扱いを 返してもらうことを望みます。しかし、私たちの望みとは違って信じていた人に 裏切られたり、人から傷つくことがたまに起こります。
信じていた人に失望するようになったダビデは、1節で言います。
1 神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護 してください。
人は、信仰の対象ではありません。自分さえも自分を信じられないのに、どうして他の人を信じることができるでしょうか。ダビデはユダという名前に頼って、血縁だから自分の味方になってくれるだろうと期待しました。私たちはどうですか。 自分と同じく韓国人だから、あるいは、自分と同じ地域の出身だから、簡単に人を信じたり、期待したことはありませんか。しかし、人は絶対に信仰の対象になれません。私たちの信仰の対象は、ただイエス様であり、私たちが信じて頼れる方は、ただイエス様だけです。ダビデは人から裏切られて後、しばらくの間人に頼って いた自分の姿を後悔します。そして、頼れる方は、神様だけだということをもう 一度悟ります。
もうジフの人たちはダビデの見方ではありません。またサウルが自分を捕まえる ために来ています。こんな現実の前でダビデはどんな選択をするでしょうか。絶体絶命の危機の前でダビデが選択したことは、神様の御前で今までして来たことを、そのまま行うことでした。
本文2節です。
2 神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。
危機の中でダビデが一番先にしたことは、その場で膝まづいて祈ることでした。 ダビデはユダという名前に頼らず、神様に頼ることにしました。もはや人が自分を守ってくれることを期待しないから、主の力で自分を弁護してくださり、守って くださるように祈りました。
ダビデは、彼の人生の中での多くの経験を通して、自分が祈れば、神様が助けて くださるということを知っていました。それなのに、なぜダビデは人を信じて、 人を期待したのでしょうか。そして、私たちはなぜ、人に失望しながらも、また 人を信じ、期待するようになるのでしょうか。その理由は、目に見える人を信じることは簡単だけど、目に見えない神様を信じ頼ることは難しいからです。
目に見えない神様を信じるためには信仰を使わなければなりません。神様が生きておられるという信仰、神様は正しい方だという信仰、神様は自分の祈りに答えて くださる方だという信仰、約束された御言葉の通りに働かれるという信仰が必要 だし、その信仰を握って祈らなければなりません。だから信仰によって生きることが難しいし、信仰によって生きることが簡単ではないから、私たちは神様に頼る 難しい道をあきらめて、人に頼る簡単な道を選択する時が多いことです。
ダビデもしばらくの間、人に頼ろうとしましたが、彼には、祈りを通して神様の 助けを経験した経験がありました。その経験があったから、危機の時に一番先に 神様の助けを求めながら祈ることができたのです。私たちにも、こんな経験が必ず必要です。問題の前で神様に祈って、苦難の中で神様に頼りながら、その状況を 克服した経験が必要だし、祈りの答えられた証しが必要だということです。こんな経験と証しが一つ一つ集まって私たちの信仰になることであり、私たちは神様を 信じるだけ、もって神様に頼ることができるのです。
本文4節です。
4 まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。
台風が来たら、木は葉っぱが落ちたり、枝が折れたりします。台風を経験した木は、あちこち傷ついたり、折れてしまって、まるで死んだような姿になります。しかし枝が折れて傷ついても、葉っぱが全部落ちてしまっても、根だけ地に張っていたらその木は絶対に死にません。根だけちゃんと地に張っていれば、時にかなってまた新しい枝が出て、豊かな実を結びます。
それと同じく私たちが神様という地に信仰の根を深く張っていたら、すなわち、 信仰によって神様に頼り、祈っている限り、私たちに台風のような苦難が来ると しても、また試練の冬が訪れるとしても、信じる者は全体に負けることがなく、 また時にかなって豊かな祝福を味わう時があるはずです。
本文6節です。
6 私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。 主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。
危機の中でダビデが二番目にしたのは、神様に礼拝を捧げることでした。聖書を 読んでみれば、現実的に理解できない場面が出ます。大洪水が終わって箱舟から 出たノアにとって一番大きな現実の問題は、日が沈む前に食べ物と寝る所を探す ことでした。しかし、ノアは一番先に、神様の御前に感謝のいけにえを捧げました。またサムエル記を読んでみれば、ペリシテの軍隊がイスラエルに攻め込んで来た時、指導者サムエルの一番大きな現実の問題は、戦いから勝利することでした。その ためにはすべきことが多かったですがサムエルは一番先に神様に全勝のいけにえを捧げます。
どうしてそんな状況にいけにえを捧げることができたでしょうか。彼らは、自分の前にある現実の問題が、そして自分の前にあるその危機が、神様の御手にかかっていて、神様はそれを解決できる方だと信じていたから、その時、一番先に礼拝を 捧げることができたのです。
たまに、信者たちが問題と苦難の前で、自分は何をすればいいのか質問する時が あります。すると私はいつも同じく答えます。
[今、あなたが神様の御前でできること、それをしましょう。]
私たちが心配するからといってできることも解決されることもありません。また、忙しく走りながら、方法を探すからと言って、必ずしもいい解決策が出ることでもありません。何をすれば良いか分からない時、いかに考えても方法がない時には、すべてを主の御前に下ろして神様の御前で今までして来たことを、そのまま行えば十分です。
神様の御前に祈って、礼拝を捧げて、御言葉に従うこと。危機の瞬間に私たちに できることの中で、これよりいい方法はないということです。現実が大変なのに 祈ることが、また危機の瞬間に礼拝を捧げることが、理性的に理解できないかも しれません。しかし、私たちが危機の瞬間に礼拝と祈りに集中することは、神様を信じる私たちの信仰を神様に表すことであり、自分の問題を神様に委ねることです。信者は力がなかったり、良い方法がなくて負けることではなく、信仰がないから 負けることであり、祈らないから負けることです。もう一度、主の御言葉を握って信仰によって神様に頼れば、神様が必ず私たちの助けてくださり、私たちを勝利 させてくださるということです。
それなら、祈りと礼拝を通して神様に頼ったダビデの選択が、どんな結果をもってきたのか調べてみましょう。
Ⅰサムエル 23章 14節です。
14 ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは いつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。
王であるサウルは、イスラエルのすべての情報を持っていたし、すべての民が サウルの目と耳になってくれました。しかし、神様が許してくださらないから、 サウルが毎日探しても、ダビデを見つけることができなかったということです。
ところでジフの人たちがサウルに告発したから、ダビデの位置が現れ、サウルが ダビデを追いました。しかし、その時、神様がペリシテを動かしてイスラエルを 攻撃させたから、サウルはダビデに行くことをあきらめます。イエス様が言われた通りに、神様の許しないには、人はスズメ一羽を取ることさえできない存在です。なおさら、神様が愛する人を、悪者に渡すはずがあるかということです。
ペリシテとの戦いが終わると、サウルはまたダビデを追います。その時、ダビデはエン・ゲディの洞穴に隠れていましたが、いきなりサウルがお腹が痛くて大便を しに洞穴に入ります。しかし、サウルが入った穴は、ダビデが隠れていた穴でした。ダビデとしては、今までの苦難を終える機会でした。
しかし、ダビデは、神様が立てられた王を自分の手で殺すことを願わなかったのでただサウルの上着のすそを少し切っておきました。そして、サウルがダビデを探すことをあきらめて帰る時、高い所でダビデがサウルを呼びます。そして、自分が サウルを殺すこともできたが、自分は神様を恐れるからそうしなかったと言います。これを通してサウルは、神様はダビデの見方であり、自分は神様が守っておられるダビデに勝つことができないということを悟ります。
自分に訪れた絶対絶命の聞きの前でダビデが選択した方法は、神様の御前で今までして来たことをまじめに続くことでした。祈りを通して神様に頼り、礼拝を通して神様の恵みを求めること。これがダビデの最善でした。
これは、私たちの状況と現実においても違いありません。また、私たちがどんな 状況と現実にあうとしても変わりありません。どんな状況にあっても私たちに できる最善のことは、感謝を持って礼拝し、信仰によって祈ることです。
私たちは自分の目に現れることしか見えません。だから、見えない所で働かれる 神様に対しては分かりません。だからいつも自分だけ損になると思って、自分だけ犠牲していると思って、いつも自分だけ悔しいことをされると思います。しかし、神様は見えない所で、私たちのために働かれ、隠密に私たちを守っておられます。
最後に詩篇121篇4節一緒に読みます。
4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
まどろむこともなく、眠ることもない神様が、今も私たちを守っておられます。 その神様の御前で私たちにできる最善のことが何なのを考え、祈りと礼拝を通して主の恵みを味わうのぞみ家族になることを、イエス様の御名によって祝福致します。