神様の知恵とこの世の知恵は違います。というのは、この世では知恵のある者だと認められても、神様の御前では愚か者になることもできるし、この世では愚か者と無視されても、神様の御前では知恵のある者と褒められることもできるということです。
創世記に出てくるヤコブは、20年間ラバンい騙された人です。結婚詐欺されて、 愛してない女と結婚するようになり、結婚持参金を支払うために、無報酬で14年間働かなければなりませんでした。もちろんヤコブも自分が不当な扱いをされていることを知っていたし、ラバンい騙されていることを知ってました。
しかし、ヤコブは、ラバンと戦おうとしなかったし、自分の仕事を疎かにしながらラバンい復讐しようともしませんでした。彼は、神様にすべてを委ねて祈ったし、苦しい現実に集中したことではなく神様の御心の通りに生きることに集中しました。人々は、そんなヤコブを見ながら、本当に愚かな者だと思いました。それなら、 神様もヤコブを愚か者だと思われたでしょうか。
ヤコブの息子ヨセフは兄たちに裏切られてエジプトの奴隷になりました。ヨセフは奴隷になっても熱心に働きました。しかし彼は、女主人を通して濡れ衣を着せられ、囚人になってしまいました。しかし、ヨセフは、自分の手で復讐したり、自分の 知恵で現実を変えようとしませんでした。ヨセフは全てを主に委ねて、祈りながら神様が働かれるまで待ちました。人々は、そんなヨセフを見ながら、愚か者だと 言いました。しかし、神様の目にもヨセフが愚か者と見えたでしょうか。
ダニエルは、バビロンのとりこになった多くのユダの少年の中一人でした。その 少年たちはみなユダの貴族であり、優れた人材だったから、バビロンの特別扱いを受けました。バビロンの指示によく従えば、彼らには平坦で、成功的な人生が保障されていました。しかし、ダニエルという少年は、神様の喜ばれないことは、何もしないことを心に定めて、また神様の御心であれば死ぬことを覚悟して従いました。適当に妥協すれば、平坦で成功的な人生を生きるはずなのに、死を覚悟するまで 神様の御言葉に従うダニエルを見ながら、他の少年たちはダニエルが愚か者だと 思いました。しかし、神様もダニエルが愚かな者だと思われたでしょうか。
聖書は、ラバンの嘘を我慢して神様だけに頼るヤコブが、また絶望の中で神様を 期待したヨセフが、そして命をかけて神様に従ったダニエルが知恵のある者だと 言われます。すなわち、この世の知恵は神様の知恵とは違うということであり、 この世が愚かだという人が、むしろ神様の御前では知恵のある者だということです。
それなら、神様の御前で愚か者とは、どんな人を言うのでしょうか。
本文1節です。
1 愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。
[一番目に、神様の御前で愚か者は、神様はいないと思う人です。]
この世の基準によってみれば、自分の利益のためにヤコブを騙して利用するラバンが知恵のある人だったし、復讐のためにヨセフに濡れぐぬを着せたヨセフの女主人が知恵のある人でした。そして、バビロンの機嫌を取りながら、現実に妥協する 少年たちが知恵のある人だったでしょう。しかし、彼らがそのように嘘をついたり、濡れ衣を着せたり、バビロンに妥協することができたのは、彼らに知恵があるからではありません。彼らは神様はいないと思う人だったし、神様を恐れない人だったから、そんなことができたのです。
この世は、そんな人を知恵のある者だと言います。しかし、聖書は、神様はいないと思う者、そして神様を恐れない者こそ愚か者だと言われます、なぜなら、彼らはいつか自分も神様の裁きを受けるようになることを知らないからです。
愚かだという言葉は、ヘブライ語で [ナべル]ですが、ナベルは、[枯れる、落ちる] という意味を持っている言葉です。この世に、永遠なものはないでしょう。季節が過ぎたら、すべての万物は萎む時が来て、美しい花も枯れて落ちる時が来ます。
それは、人も同じです。人もいつかは力と若さが枯れてしまう時が来て、栄光の 時間も過ぎ去る時が来ます。そして、ついには死んで神様の裁きの前に立つことがすべての人間の運命です。それが神様が造られた万物の原理であります。
しかし、愚か者は、万物の時を定められた神様を知らず、いつか枯れ落ちるようになる自分の運命を悟れないということです。だから悪を行いながらも、神様を恐れないということです。そして、だからこの世で一番愚かな者は、神様はいないと 思う人だということです。
いつか申し上げましたが、のぞみ教会のある青年がヘルニアで入院することになりましたが、病室がなくて老人療養病院に入院したことがあります。その時、6人室に入院しましたが、その青年を除いた5名の人は、息はしても意識がない方でした。 それを見ながら多くのことを悟るようになりました。
その方たちの中で、自分の最後の瞬間が、そのようになることを知っていた方が おられたでしょうか。誰も自分の最後の瞬間がそのようになることを知っていた 人もないし、望んでいた人もなかったはずです。もし、彼らの中でイエス様を 信じる方がなかったとすれば、そこにおられた5名の方は自分がナベルという事実を知らなかったはずです。いつか枯れ落ちてしまう自分の運命を悟れず、ただ自分の人生を熱心に生きたはずです。すなわち、人々には認められたかもしれませんが、神様の御前では、愚かな人生を熱心に生きたはずだということです。
私たちの人生も枯れ落ちる時が必ず来ます。しかし、自分がナベルということを 知って、神様を探し求める人の人生は、絶対にナベルで終わりません。神様が、 神様を信じて、神様に頼る知恵のある人には、永遠の命を与えてくださり、しぼむことのない栄光の冠をくださるからです。のぞみ家族に神様を知る知恵があることを主の御名によって祝福致します。
[二番目に、神様の御前で愚か者は、悪を行う者です。]
ラバンとか、ヨセフの女主人とか、バビロンに従った少年のような人は、いつ、 どこにもいます。彼らは、悪い嘘を通して人々を利用したり、罪責感もなく人々に傷つけて、苦境に陥れます。そして、自分は、信仰によって生きてないながら、 むしろ信仰によって生きようとする人を愚か者と非難します。彼らは、自分の目的だけ達成できれば、他の人が傷ついたり、損になるとしても関心もなく、善と悪の基準が自分にあります。すなわち、自分のように生きる人は、知恵のある者であり、自分と違う人生を生きれば愚か者だと思います。
しかし、伝道者の書7章25節(新共同訳)で、ソロモンは、こういいます。
25 わたしは熱心に知識を求め/知恵と結論を追求し/悪は愚行、愚行は狂気であることを/悟ろうとした。
ソロモンが人生を振り返ってみて深く考えた末に悟ったことは、悪こそ愚かなことであり、絶対にしてはいけない狂ったことが悪を行うことだという話です。
Ⅰヨハネ3章8節には、罪を犯す者は、悪魔に属すると話しています。罪を犯して 悪を行うということは倫理的に悪いことを行うというぐらいの意味ではありません。罪を犯すというのは自分をサタンの手に渡すことであり、サタンが自分を支配して蹂躙するように許すことです。だからソロモンは、罪を犯して、悪を行うことこそ最も愚かで、狂ったことだと話すことです。
それなら、いったい私たちが愚かさに陥る理由が何でしょうか。
2節と3節を読みます。
2 神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるか どうかをご覧になった。
3 彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
神様を尋ね求める、悟りがないから愚か者になるということです。悟りがないから神様を尋ね求めなく、悟りがないから悪を行うようになるということです。
神様は、私たちの人生の中に、いろんなことを通して私たちに話しておられ、 ご自分を表されます。言い換えれば、神様は、私たちにご自分を表わされるために、また神様のことを教えてくださるために、そして私たちが神様をもっと知り、信じさせるために、私たちの問題も試練もくださるということです。一言で、私たちが神様を悟れない愚か者にならないように、私たちに問題と試練を与えてくださるということです。しかし、多くの人がそれを悟れず、神様を知ろうとも、神様を探し求めようともしないということです。そして、そのように愚か者になるということです。
だから、いつか申し上げましたが、私たちに起こることをイエス様と結びつけないこと、すなわち、何が起こった時、それをイエス様を通して解釈して、イエス様を通して解決しないことが私たちに起こる一番悪いことだということです。なぜなら自分に起こったことをイエス様と結びつけないと、すなわちイエス様を通して解釈したり、イエス様を通して解決しなければ、イエス様を経験してイエス様に対して悟れる機会を失ってしまうからです。
そして、また、イエス様に対して悟らなかった私たちは、結局イエス様はいないと思うようになり、それによって悪を行う愚か者になるしかないということです。
それなら神様の御前で知恵のある者は、どんな人なんでしょうか。愚か者の反対を考えてみれば分かります。
一番目に、神様の御前で知恵のある者は、神様がおられると信じる人です。
このような人は、いかなる場合でも、その状況を与えてくださった方が神様だと いうことを認めて、神様の御心が何なのかを知るために、御言葉と祈りによって 神様を尋ね求めます。そして、神様がその状況を解決してくださるように、神様の御言葉に従いながらただ神様だけに頼ります。ヤコブとヨセフとダニエルはこんな人生を生きたし、聖書で知恵のある人というすべての人がこんな人生を生きました。
自分がナベルということを知って、自分の人生もいつか枯れ落ちる時が来ることを認めながら、永遠の命をくださるイエス様を信じて、頼る人が神様の御前で知恵のある者だということです。
二番目に、神様の御前で知恵のある者は、悪を行わなく、善を行う者です。
伝道者の書3章11節で、知恵の王ソロモンはこう言いました。
11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を 与えられた。しかし人は神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
私たちは、私たちを愛しておられる神様が、なぜ私たちに苦難と試練を与えてくださるのか理解できません。ラバンが20年間ヤコブを苦しめても彼を放っておかれる神様の御心を、ヤコブが理解することができたでしょうか。
義人ヨセフが濡れ衣を着せられた時、ヨセフは神様の御心が理解できたでしょうか。そして、信仰によって生きるという理由で、仲間たちに避難された時、ダニエルは、神様の御心が理解できたでしょうか。
私たちとしては、神様がどんな計画を持っておられるのか、今、自分の人生に何をしておられるのか知ることができません。なぜなら、神様が行われる御業を、人が見きわめることができないようにされたからです。
それにも関わらず、私たちが神様を信じて、その方の御心に従うのは神様に対する信仰のゆえです。神様がこれさえも、時にかなって美しくしてくださるだろう、 時にかなって神様の偉大な計画を悟るようになるだろうというその信仰を持って、私たちは理解できない時間を、祈りながら耐え忍ぶことです。
続いて12節で、ソロモンが語ります。
12 私は知っている。人は生きている間、幸福であり、善いことをする以上に 良いことはないし、
[人は生きている間、幸福であり、善いことをする以上に良いことはない]
神様は善い方であり、私たち愛しておられる全能なる方だから、私たちにできる 最善のことは、時にかなって働かれる神様の愛を信じて、喜びながら善を行うことだということです。このような人が、神様の御前で知恵のある人だということです。
それなら、理解できない苦難の中でも、神様を信じて善を行った知恵のある人たち、ヤコブとヨセフとダニエルの人生の中で、神様は、どのように働かれたでしょうか。ヤコブは、自分の知恵では、ラバンに勝つことができないということを知りました。それで、自分の無力さを認めて、すべてのことを神様に委ね、頼りました。するとその時から、神様がヤコブの人生を逆転させてくださって、ヤコブがラバンより 富む者にならしめてくださって、これ以上、ラバンがヤコブに悪いことをしない ようにヤコブを守ってくださいました。
ヨセフも自分の熱心を下ろして、すべてを神様に委ねて頼りました。すると神様がヨセフの人生を逆転させてくださって奴隷であり囚人であったヨセフをエジプトの総理大臣にしてくださいました。そして、ヨセフを裏切った兄たちと彼に濡れ衣を着せた女主人まで、ヨセフの前にひざまづかせてくださいました。
そして命をかけて神様の御心に従ったダニエルに対しては、神様がバビロン帝国で皇帝の次に高い地位の権力者になるように恵みを授けてくださいました。
太陽を背いていれば、いかに早く走っても自分の前の暗い影から逃れることができなく、太陽がどんなに明るいか知ることができません。暗い影から逃れるためには、太陽に向かって歩かなければなりません。
私たちが光であられる神様の御心に従わなく、神様を背いて自分の心の通りに生きれば、私たちは暗闇の中で悪を行うしかありません。また、神様の恵みが自分に 向かっていても悟ることができません。そのように、また愚か者の人生を生きる ようになるのです。
説教をまとめます。
私たち信じる者が、この世で試練に会ったり、不利益を受ける理由が何でしょうか。私たちに知恵がないからでしょうか。私たちが愚か者だからなんでしょうか。そうではありません。イエス様を信じる者たちが、試練に会っても耐え忍び、不利益を受けても、この世の方法で戦わない理由は、私たちは、神様を恐れる人たちだからです。私たちは神様がどれほど聖なる方なのか、また恐れるべき方なのかを知っている者たちだから、自分の感情に沿って罪を犯すことがないように、耐え忍び、 節制することです。また、その方が全能なる方であることを知っているから、その方の御手に、私たちの問題を委ねて、ただその方の御心に従いながら祈ることです。
神様の知恵は、この世の知恵とは違います。神様は、今も神様に頼り、神様に祈る知恵のある者を探しておられます。そして、神様は時にかなって、私たちに神様の美しい御業を現わされるはずです。その時まで私たちのすべきことは、神様を信じ、主を喜びながら善を行うことです。
新しい一週間も、人々から愚か者だと無視されても、神様には知恵のある者だと 褒められるのぞみ家族になることを、イエス様の御名によって祝福致します。