25年5月25日_神の家にあるオリーブの木

説教と証し

ダビデが詩篇52篇を書いた理由は、ドエグという人のゆえでした。サムエル書を 読んでみれば、イスラエルの王サウルが、ダビデを殺そうとするから、ダビデが サウルを避けて逃亡者の身になってしまいました。しかし、行ける所も、頼れる 所もありませんでした。家に行ったら家族が危険になるし、また一生羊飼いとして生きたダビデには、助けを求めるような友たちもありませんでした。そのように、いろいろ考えた末に、一か所思い出される所がありましたが、それがノブという 町でした。

ノブは、祭司たちが住んでいる町だし、サウルがいけにえを捧げに行く時には、 ダビデも一緒に行ったので、ノブは、町も人たちもダビデには慣れている所でした。そして、万が一の場合、ダビデがノブに行ったことをサウルが知るようになっても、サウルは神様を信じる者だから、まさか、祭司たちに害を与えるとは思わなかったので、ダビデは、一応ノブに行くことにしました。

しかし、そこにサウルの家来であるエドム人ドエグがいて、ドエグによってノブに悲劇的なことが起こってしまいます。ドエグがダビデのことをサウルに話して、 サウルはドエグにノブに住んでいる祭司たちとその家族と家畜まで全部殺すことを命令しました。ダビデが意図したことではなかったですが、それでも、ダビデの ゆえに85人の祭司たちと彼らの家族が殺されました。ダビデとしては大きな後悔が残る選択だったし、忘れられない悲しみになりました。そして、このことがあった後、ダビデが書いた詩が詩篇52篇でした。

本文でダビデは、ドエグの悪を通して、悪の道を歩んでいる者と義の道を歩んで いる者を比べながら、神様の御心を表しています。

本文1節です。

1 なぜ、おまえはを誇るのか。勇士よ。神のみは、いつも、あるのだ。

 

[悪者の一番目に特徴は、自分の悪を誇るということです。]

悪い心と悪い計画を持っていることこと自体が恥ずかしいことなのに、悪者は、 むしろそれを人の前で誇るということです。ある人は罪人として生きてきた自分の過去を誇ります。若い時、自分に多くの女があったとか、自分がのんべえで、よく遊べる人だったとか、喧嘩して負けたことがないなどの話を自分の誇りのように 話します。それを誇るということが何を意味しますか。今もその時を懐かしんで いるし、できるなら、またその人生を生きたいということです。

悪者が悪の道を歩む理由がありますが、それは、彼らが神様の恵みから離れているからです。神様の恵みの中に住んでいるなら自分の内に悪い心と計画があることを恥じらうべきなのに、神様の恵みから離れているから神様を恐れず、善と悪に対する分別力を失ってしまったのです。神様が自分とともにおられ、主の恵みを受けているのが誇りになるべきなのに、悪者たちは神様の恵みから離れているから自分の悪と罪しか誇りがないということです。これが悪の道を歩んでいる者の特徴です。

 

[二番目に、悪者の特徴は、悪を愛し、言葉で人に害を与えるということです。]

本文3節と4節です。

3 おまえは、善よりもを、義を語るよりもりを愛している。セラ

4 欺きの舌よ。おまえはあらゆるごまかしのことばを愛している。

ドエグは、目の前でダビデと祭司長アヒメレクのことを見たし、アヒメレクには、何の悪い計画もないことを知っていましたが、サウルの信頼を得るために、真実を隠してしまいました。まるで祭司たちがダビデの見方であり、サウルに反逆をしたように、当時の状況と真実は言わずに、ただダビデとアヒメレクがノブで会ったという事実だけを伝えることによって、サウルを誤解させて、祭司たちが殺される ようにしました。

信じる者たちの中にもこんな罪を犯す人が多いです。言葉によって誤解をもたらし、言葉で否定的な考えを広がる人がいます。しかし、嘘をついた人、悪意的な言葉で他の人を悩ませる人、否定的な言葉と噂を伝えることによって人間関係を壊す人、それを通して教会の中に問題を起こす人が受けるようになる裁きがあります。

本文5節です。

5 それゆえ、神はおまえを全く打ちき、打ち倒し、おまえを幕屋から引きかれる。こうして、生ける者の地から、おまえを根こぎにされる。セラ

言葉で犯した罪のゆえに神様が彼らを打ち砕き、打ち倒し、引く抜かれ、根こぎにされると言います。すなわち、偽りの言葉とか、他の人に対する悪意的な言葉、 人間関係を壊す否定的な言葉を、神様が特別に邪悪な罪と思われるということだし、神様は言葉によって犯した罪を裁かれるということです。

皆さん、教会の中で、他の人の話とか噂を伝えることを恐れなければなりません。特に、皆さんが伝えようとするその言葉が、他の人に対する否定的な話である時は、さらに恐れるべきであります。なぜなら、私たちが話した言葉に対して、主の前で責任を負うべき時が必ず来るからです。

皆さんが、他の人に伝えた言葉を通して、人々の関係が回復され、傷ついた人が 慰められているか、さもないとその話を通して、誤解が起こったり、否定的な噂が広がったり、人間関係が壊れたのかをよく考えてみれば、今自分が悪の道を歩んでいるか、義の道を歩んでいるか知ることができます。このように悪を愛し、言葉によって人に害を与えることが、悪の道を歩んでいる者の特徴だということです。

 

[三番目に、悪者の特徴は、神様ではなく富にたよるということです。]

本文7節です。

7 「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの  がる。

悪者の特徴は、神様ではなく、他のものに頼るということです。それが能力であれ、知識であれ、富であれ、神様がおられるべき所を、他の者が占めているとすれば、今自分が悪の道を歩んでいるということを悟らなければなりません。

人々がお金に頼る理由があります。なぜなら、いつかも申し上げましたが、お金は人を神様のように作ってくれるからです。エデンのアダムとエバは、神様ではなく人間でしたが、自ら人間になるために、神様の禁じられた善悪の知識の木の実を 取って食べてしまいました。

お金というものは、第二の善悪の知識の木の実であります。お金には力があります。お金だけあれば、愛を買うこともできるし、外貌を変えることもできるし、人を 支配したり、命令することもできます。甚だしくは、お金で人の命を生かせたり、奪ったりすることもできます。このようにお金というのは、神様ではない人間が まるで神にでもなったかのように錯覚させるものだから、お金が第二の善悪の知識の木の実だというのです。アダムはその実を通して神になろうとして、彼の子孫は、お金を通して再び神になろうとするんだということです。このように、神様に頼るのではなく、富とか力とか知識に頼るのが、悪の道を歩んでいる者の特徴だということです。

それなら、義人の特徴は何でしょうか。ダビデは、義人の特徴に対して一言で、 話します。本文8節です。

8 しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリブの木のようだ。私は、世  限りなく、神のみにむ。

[この私は、神の家にあるおい茂るオリブの木のようだ]

悪人は、自分の家からも根が引き抜かれますが、義人は、神様の家にあるおい茂るオリーブの木のようだということです。

オリーブの木には、特徴がありますが、オリーブの木は寿命が長いそうです。  イスラエルで長くなったオリーブの木の年輪を確認してみれば、その中には2千年以上生きている木もあるそうです。そして2千年過ぎたオリーブの木も相変わらずオリーブの実を結んだそうです。

2千年間生きているということは、2千回が超える冬に会ったということであり、数多くの季節の変化と環境の変化を経験したということでしょう。平安で豊かな 時間もあったでしょうが、苦難と試練の時間も多かったでしょう。しかし、その 全ての時間が、オリーブの木には、有益な時間であり、必要な時間だったはずです。結局2千回が超える変化と試練の時間を通して、オリーブの木は強くて堅固な木になるのです。

また、オリーブの木は、常緑樹だから試練の冬に会っても葉っぱが落ちなく、色が変わりません。イエス様を信じる私たちがこういう存在です。信者は苦難と試練があっても、そのうちにイエス様を信じる信仰だけあれば、枯れたり、変わりません。むしろ信者は苦難の中にいる時、もっとイエス様を探し求めて、イエス様に近づきながら、より青くなる木であります。私たちがイエス・キリストという地に根を 下ろしている限り、イエス様を信じえ頼っている限り、どんな試練も信者を敗北 させたり、滅ぼすことができません。これが、イエス様を信じる者、すなわち義人の特徴です。

本文9節です。

9 私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を      待ち望みます。

[私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったの ですから。]

ダビデは、家来としてサウルに忠実で、神様の御心に従ったことしかなかったのに、逃亡者の身になりました。また、できれば、他の人に害を与えないために、慎重に考えて決定したのに、自分の選択のゆえに罪のない祭司長たちが殺されました。 しかし、悪人サウルとドエグは、イスラエルの中ですべての力と権勢を味わって いました。状況だけみれば、本当に神様が生きておられるかたなのか、その方は、本当に正しい方なのか疑うしかない状況でした。それなのにどうしてこんな状況でダビデは神様に感謝することができたでしょうか。

ダビデは、現在のことに対して感謝したことではなく、このすべてのことを通してこれから神様が行われることを信じて感謝したことです。この全てのことを通して神様がなされる偉大な計画を信じていたし、悪人を裁かれ、義人には恵みを授けてくださることを信じたから、神様の計画を信頼する信仰によって感謝することが できたということです。

聖書を読んでみれば、ダビデは危機に会う度ごとに神様に感謝の祈りを捧げました。イエス様も同じです。イエス様も五つのパンと二匹の魚以外には、何もなく、買うこともできない極限の状況の中で、父なる神様に感謝の祈りを捧げました。

そして、ダビデは感謝の祈りを通して危機から逃れることができたし、イエス様は感謝の祈りを通して五つのパンと二匹の魚で5千名を食べさせる奇跡を起こされました。このように感謝には、私たちを問題と状況から救い出す力があるということです。

ピリピ4章6節と7節で、パウロは語ります。

6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを  キリストイエスにあって守ってくれます。

[何も思い煩わないで] という言葉は、すでに思い煩うべき状況にあるということ ですね。また、[あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい] という言葉は、何か必要なことがあり、そのために思い煩っている状況だという話です。しかし、聖書はそんな時こそ、[感謝をもって神様に祈りなさい]と話しています。どうしてそんな状況に思い煩わなく、感謝することができるでしょうか。

聖書は、私たちに信仰を求めているのです。ダビデの感謝が危機に陥った彼を救い出して、イエス様の感謝が不可能な状況を奇跡で満たしたように、祈って求める ものはすでに受けたと信じて感謝を持って祈りなさいということです。そうすれば神様が私たちの心と思いを守ってくださり、私たちのために働いてくださるという約束であります。

イエス様を信じる者も、信じない者も、人間はみな、罪人という同一の出発線から人生を始めます。しかしある人は悪の道を歩むようになり、ある人は義の道を歩むようになります。これを分ける決定的な違いは、いま、神様の恵みの中で生きる いるかどうかということであります。

神様の恵みの中に留まらず、自分の力に頼って生きる人は悪の道を歩むようになり、イエス・キリストという地に根を下ろして、恵みの中に生きる人は、義の道を歩むようになるのです。

皆さんはイエス・キリストという地に根を下ろして生きていますか。言葉によって主の愛と恵みを表しながらイエス様を自分の誇り、自分の力として生きていますか。そういう人は、神様の家に植えたオリーブの木のように、いかなる場合でも、主の恵みが枯れなく、たとい試練と苦難の中にあるとしても、生い茂るオリーブの木と成長するはずです。のぞみ家族が、イエス様の恵みの中で毎日義の道を歩む信者になることを、イエス様の御名によって祝福致します。