詩篇51篇は、ダビデがバテ・シェバと罪を犯した後、預言者ナタンを通して自分の罪を悟って悔い改める内容の詩であります。私たちは、弱い人間だから、罪を犯すようになり、肉の体を着ている限り、誰も罪より自由になることはできません。 しかし、私たちの罪と弱さを知っておられる神様は、私たちの罪を贖われ、赦してくださるためにイエス・キリストを遣わしてくださいました。それで、誰でも悔い改めてイエス様を信じる人は、罪を赦され、救われます。
悔い改めは、反省とか後悔とは違います。悔い改めは言葉の通りに悔いて、改めることを意味します。すなわち、悔い改めは自分の罪を認めて悔いることだけでなく、二度と罪を犯さないという決心と変化までを悔い改めというのだということです。だから悔い改めた後に何回も繰り返して同じ罪を犯すとすれば、本当に悔い改めたのか、再び自分の心を振り返ってみる必要があります。
それなら、まことの悔い改めとは何でしょうか。本文のダビデの悔い改めを通してまことの悔い改めとは何なのか調べてみたいと思います。
[一番目に、悔い改めは、自分の罪を悟って認めることから始めます。]
本文3節です。
3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の
前にあります。
ダビデは、自分が犯した罪の重さを知っており、また、自分が根本的な罪人であることを知っていました。
最近韓国の有名な演歌歌手が飲酒運転で事故を起こした後、自分の罪を隠すために自分のマネージャーが運転したと嘘をついたことがありました。歌一曲で200万円を受ける人だから、自分の罪を現れたら失うことも大きいでしょう。しかし、調査を通して罪が表れると彼は裁判を受ける間、裁判長に130枚が超える反省文を出したし、自分が歌を通して世界中に韓国の名誉を高めたから赦してほしいと要求したことがありました。言葉は反省していると言いますが全然反省の気持ちが感じられません。130枚の反省文には、いったい何の反省が書いているでしょうか。
ダビデは、王であったので自分の罪を認めたら、失うことも多い人でした。しかしダビデは、偶然な間違いのように言い訳を言うこともないし、仕方なかったと言いながら、環境とか人のせいにすることもしませんでした。そして、自分の成果とか手柄を言いながら赦してほしいとも言いませんでした。
むしろ、5節でダビデは言います。
5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
自分は咎ある者として生まれ、罪人から生まれたと告白します。すなわち、自分が罪人になったのは、外部の影響によるのではなく生まれつきの本性であり、自分は生まれながら罪人の命を持っている罪人の子孫だということです。私たちは、罪ということに対して、より具体的に理解する必要があります。私たちは、罪という ことを悪い行いとだけ思いますが、そうではありません。
私が幼い時、うちの母は、ご飯とかパンの上にカビが生えたら、その部分だけ取り除いて食べれば問題ないと聞きました。それでずっとそのように思っていたのに、まだ生きているのは、主の恵みであります。ところで、ある生物学者の話を聞きましたが、ご飯とかパンにカビが生えたということは、すでにそれがカビの菌に完全に征服されたという意味だそうです。
昔、戦争する時、町を征服した後には、征服したという意味で城壁の上に旗をかけました。それと同じく、カビが生えたということは、それがすでにカビの菌に征服されて、カビが旗をかけることとおなじことだそうです。すなわち、目に見える カビが問題ではなく、すでにそれがカビの菌に征服されて、回復できなくなったという事実が重要なことだということです。パンの上に生えたカビだけ取り除いたらパンがきよくなるのではないことのように、私たちの悪い行いを解決するからと いって私たちの内にある根本的な罪が解決されるのではないということです。
私たちが罪を犯した時、本当に深刻な問題は、罪が自分の思いと心を征服して、 それが行いによって出てしまったということ、罪が自分の心を征服した後に、悪い行いという旗をかけたということが、もっと深刻な問題だということです。
だからダビデは、自分が犯した罪の行いだけ悔い改めたことではなく、自分の命と心をサタンと罪が占領してしまったということを神様に告白しながら悔い改めたということです。このように悔い改めとは、自分が根本的に罪人であることを認めることから始まるということです。
[二番目に、悔い改めは、砕かれた心を捧げることです。]
いつかも紹介したことがありますが、韓国の映画の中で、[밀양]という映画があります。一人だけの息子と生きてゆく、ある女がいました。彼女にとっては、その息子が唯一の希望であり、自分の全部でした。ところで、その息子が誘拐されて、 殺されました。苦しんでいた女は、教会に行って福音を受け入れて慰められました。そして、イエス様の愛によって自分の息子を殺した人を赦すことに決心しました。
心は死にそうだったですが、それでも教会のみんなの応援と祈りの中で、勇気を 出して刑務所に行った女は、その人に会いました。そして彼女は、自分が福音を 受け入れて救われたと告白しました。そして、イエス様が自分を赦してくださったように、自分も主の愛によってあなたを赦してあげますと言いました。しかし、 女の話を聞いた人が、平安な顔で、微笑みながら、こう言いました。
[自分の罪はすでに赦されました。なぜなら、私もここでイエス様を受け入れたからです。]
この話を聞いた女は、憤ります。息子を失った自分は、まだ赦したことがないのに、どうして、この人は、自分がすでに赦されたと言うのか。息子を失った自分は、 まだ、一日一日を、こんなに苦しみの中で生きているのに、どうしてあの殺人犯は、平安な顔で過ごすことができるのか。この映画は、このようにイエス・キリストにあって、悔い改めと赦しに対して、私たちに質問を投げます。
イエス・キリストを信じる私たちは、どんな罪を犯しても、悔い改めれば、赦されます。しかし、それが、私たちによって傷ついた人たちに、赦しを求めなくても 良いという意味ではありません。
イエス様が、私たちのために行われたことは、犯罪した私たちが受けるべき、罪の代価を 身代わりに払ってくださったことです。私たちが傷つけたり、害を与えた人たちに、赦しを求めるべき義務まで、免除してくださったことではないということです。多くの信者がこれを誤解しているから多くの人々が教会に対して失望して教会を離れることです。多くの信者たちが、どんな罪を犯しても悔い改めれば、 赦されるという真理をあまりにも単純で、自己中心的に解釈しているからです。
しかし神様の御心は、私たちに考えとは違います。むしろ神様は、私たちによって、傷ついたり、害を受けた人たちが感じた、その苦しみと痛みを、私たちがともに 感じて理解することを願っておられるという事実を、私たちは忘れてはいけません。
本文17節でダビデが告白します。
17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
神様が罪を犯した私たちに願っておられる悔い改めは、宗教儀式とか熱心ではなく砕かれた心だということです。
それなら、砕かれた心というのは、何を言うのでしょうか。ヘブライ語で、砕くという言葉は、臼で砕いて粉々にするという意味です。すなわち自分を通して相手が受けた心の傷と寂しさと恐れと悔しさなどのすべての痛みを相手と同じ濃度で理解して苦しむのが砕かれた心だということです。
このように相手に対する砕かれた心のない悔い改めは、神様が認めてくださらなく、受けてくださらないということです。だから自分は悔い改めて神様に赦されたから、相手には謝らなくても良いという考えは愚かなことだということです。まことの 悔い改めは、相手が受けた心の傷と痛み共感する心、すなわち砕かれた心を神様に時、可能なことだということです。
[最後に悔い改めとは、信仰によって始めて信仰のよって終えることであります。]
悔い改めにおいて一番重要なことは、信仰です。人は、誰も罪を犯して、その罪を悟ったら、罪責感を感じます。ところで、この罪責感を処理することにおいて、 信仰というのが本当に重要です。イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダは、 自分の罪を悟って罪責感のゆえに苦しみました。さらにキリストであるイエス様を裏切ったから、自分は絶対に赦されないだろうと思って、結局自殺を選択しました。
しかし、同じ罪人ですが、ダビデは違いました。ユダとダビデの違いは、信仰に ありました。ダビデも罪を犯して同じく罪責感のゆえに苦しみましたが、それにも彼には確実な信仰がありました。
それがどんな信仰だったのかが、本文7節にあります。
7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
ダビデは、自分には、罪を解決する能力がないが、神様は、自分の罪を聖よくして、回復できる方だということを信じました。この信仰があったからダビデは自殺ではなく、悔い改めを選択することができました。ユダが死んで裁かれた理由は、彼がイエス様を裏切ったからではありません。自分の罪を後悔していましたが悔い改めなかったからであり、何よりも彼にイエス様をキリストとして信じる信仰がなかったからです。キリストであるイエス様は、自分を裏切ったユダのためにも十字架を背負うことでしたが、それを信じられなかったユダは、結局悔い改めではんく、 自殺を選択したということです。
このように悔い改めにおいて、最も重要なことは信仰だということです。すなわちイエス様は、私のどんな罪も赦してくださる方であり、また誰よりも私が赦されることを願っておられる方だということを信じなければならないということです。 自分が十字架にかかった死なれるとしても、私が赦されることを望んでおられる 方が、私たちのイエス様だということです。
だから、悔い改めには必ず信仰が必要だということであり、悔い改めは、信仰に よって初めて、信仰によって終えるのだということであります。
それなら、信仰によって悔い改めを始めるべきだということは分かりますが、信仰によって悔い改めを終えるというのは、何の意味でしょうか。
先月韓国からうちの姉が来たことがあります。その時、自分の子どもたちに対する話をしながら、自分が昔、子どもたちに暴言と呪いの言葉を言って、子どもたちを無視したり、時には、子どもに暴力を使った過去が忘れられなくて苦しいという 話をしたことがあります。その後、何回もその時のことを悔い改めましたが、相変わらず、その時の記憶で苦しいという話を聞きました。
自分がその時を浮かべながら苦しんでいたら、むしろ子どもたちは自分はその時のことが記憶もなく、母を少しも恨んでないのに、なぜまだそのことで苦しんでいるのかと子どもたちが逆に母を責めるそうです。それなら、まだ姉の罪を赦してないのは誰でしょうか。神様も姉を赦してくださって、子どもたちも母を赦したのに、まだ自分だけが、自分のことを赦してないのです。
多くの人が罪を悔い改めた後にも、赦されたという確信を持たず、罪から逃れられません。なぜなら、自分が自分の罪を赦せないからです。特に、日本と韓国は、 自分が犯した罪に対して長い間すまない気持ちを抱いて、自分を苦しめる文化的な習性がありますし、それを美徳だと思います。
悔い改めは、信仰によって初め、信仰によって終えなければならないという理由がここにあります。皆さん、私たちが錯覚してはいけないことがありますが、悔い 改めは、私たちの心の中で、感情を通して起こる事件ですが、徹底的に信仰の行いだとういことを忘れてはいけません。私たちが、自ら自分を心の監獄に閉じ込めて、過去の罪責感で自分を苦しめるからといって、イエス様は少しも喜ばれません。
むしろ、それは、自分の心の苦しみを通して、自ら自分の罪の代価を払おうとする不信仰であり、自分がキリストのことを代わりにしようとする高慢です。
悔い改めたのにも、赦されたという確信を持たず、続いて苦しみの中に留まるのは、イエス様の贖いが完全ではないと思うことであり、イエス様の十字架は自分の罪を解決するには足りないと思うことと同じです。一言で、イエス様をキリストとして信じられない不信仰だということです。そして、サタンは、限りなくその罪責感を通して、その人を騙して、その人を支配しながらその人の心を地獄に引き入ります。
イエス様が私たちの代わりに苦しみを受けられ、私たちの代わり死の刑罰を受けたことは何のためすか。イエス様が私たちのために苦みを受け、死なれてから、結局復活されたなら、私たちも悔い改めを通して苦しみと死の時間を過ぎた後には、 それから逃れて、復活の喜びと自由を味わわなければならないということです。 それがイエス様が救われた人たちに望んでおられることではないでしょうか。
まことの悔い改めは、自分の罪が赦されて、自分はもうその罪から逃れたという、その信仰を持つことまでが、まことの悔い改めであります。私たちにこの信仰が ないとすれば、私たちはまだまことの悔い改めができてないのです。
ダビデは、悔い改めた後に、詩篇51篇を歌と作って、その歌を礼拝と時に聖歌隊に歌わせました。ダビデがまだ罪に縛られていたなら、まだその日の罪が恥になっているとすれば、相変わらず罪責感で苦しんでいたならば、彼が多くの人の前で、 自分の恥ずかしい過去を歌わせることができたのかということです。
イエス様が私たちに望んでおられることがこれです。イエス様は私たちが罪責感の監獄に閉じ込まれないように、私たちの代わりに死の監獄に閉じ込まれました。 私たちが後悔という鞭で、自分を打つことがないように、私たちの代わりに鞭に 打たれました。そして、私たちが、永遠に自分を憎む懲らしめから、逃れさせる ために、イエス様が私たちの代わり懲らしめられました。
だから、もし、イエス様の御前に、まことに悔い改めたなら、信仰によって自分を赦さなければなりません。それが、まことの悔い改めであり、それがイエス様が 喜ばれる信仰であります。
まことの悔い改めを通して、毎日、キリストの恵みを味わいながら生きて行く私と皆さんになることを、イエス・キリストの御名によって祝福致します。