神様は、この世を造られた創造主であります。また、神様は、すべての人をその 罪から救ってくださった救い主であります。そして、神様は、この世の終わりの日、再び来られて、すべての人間を裁かれる、裁き主でもあります。
今日の本文、詩篇50篇は、裁き主神様に対して語っていますが、5節と6節を読んでみましょう。
5「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」
6 天は神の義を告げ知らせる。まことに神こそは審判者である。セラ
本文の内容を一言で説明すれば、裁判長である神様が被告人を読んで裁判を始める状況と同じです。それなら、裁判長の前に呼ばれてきた被告人は誰でしょうか。 神様を信じない者たちでしょうか。偶像に拝んだり、悪を行う者たちでしょうか。違います。まじめに信仰生活をしているが、まことの礼拝を捧げることができない神様の民を裁判所に呼ばれることです。それなら、神様が告発する彼らの罪は、 何だったでしょうか。
本文8節です。
8 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、 いつも、わたしの前にある。
彼らが犯した罪は、心のない形式的で、義務的な礼拝を捧げたということです。 すなわち、神様は、心のない形式的な礼拝を罪と思われるということです。神様はご自分の民を救われるために律法をくださり、神様の御心を教えてくださいました。また、礼拝を通して神様との交わりができるように恵みを授けてくださいました。しかし、神様の民は、神様の御言葉に耳を傾けず、神様の御心に従いませんでした。
神様が私たちに御言葉を与えてくださった理由は、その御言葉を通して私たちを 変化させるためです。御言葉を聞く目的は、御言葉を通して新しい知識を持たせることでもなく、礼拝儀式を行わせるためでもありません。その御言葉を通して、 私たちが神様の御心の通りに変化されることに目的があるということです。
ヤコブ1勝22節と23節です。
22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を 鏡で見る人のようです。
私たちは、朝起きて顔を洗ったり、ご飯を食べた後には、鏡を見ます。口に何か ついているのではないか、鳥の巣頭になっているのではないか確認するためです。そして、鏡を見ながら、口が汚れたら拭いて、髪の毛がそそけていたら、くしで とかしてこそ、鏡を見る意味があります。鏡を見て、自分の顔は汚く、鳥の巣頭だという事実を確認することだけでは、意味もなく、有益もないということです。
神様の御言葉は、私たちを映す鏡です。御言葉という鏡を通して罪がついている 自分の心を見つけて、神様の御心から外れてもつれている自分の人生を発見して 直さなければならないということです。
皆さんは、説教を聞きながら、御言葉の通りに生きようとする心を持って説教を 聞いていますか。主の御言葉の通りに変えようとする心があるかということです。聖書は、御言葉を聞いて行わない人は、自分を欺く者であり、鏡を見ながらも、 自分の汚れた顔を拭かない者だと言います。
本文のイスラエルが裁かれた理由は、彼らが礼拝を捧げなかったからでもなく、 献金を捧げなかったからでもありません。礼拝儀式と献金より、もっと重要な主の御言葉に従おうとする心なく礼拝を捧げたから、裁判長である神様がご自分の民を裁かれたということです。自分が変化しようとする決心なく、機械的に御言葉を 聞いたから、裁かれたということです。このように、あまりにも多くの信者が、 神様の御心には関心もなく、ただ礼拝という儀式を行ったから、自分は信仰的な 義務を果たしたと思うということです。
また、礼拝の目的は神様との交わりです。神様は私たちの罪を表したり、赦されるために、あえて礼拝という儀式が必要ではありませんでした。私たちに聖書をくださった後、聖書に従えば祝福、従わなかったら裁いたら、むしろ問題は簡単です。しかし、神様が願っておられるのは、民との交わりだったので、私たちに礼拝を 命じられたのです。そして、私たちは礼拝を通して生きておられる神様と人格的な交わりができるようになりました。神様と交わりができるのは、ただ人間にだけ 与えられた素晴らしい特権です。これは、御使いたちにも許されなかった特権です。
しかし、イスラエルの民は、神様を知ろうともせず、神様と交わろうともしませんでした。ただ儀式として礼拝を捧げ、献金を捧げることで自分の義務を果たしたと思いました。だから、神様は、そのように儀式と形式で礼拝する者たちを神様の 裁判に呼ばれたのです。
今日は、母の日ですが、韓国の学校では母の日になれば、母に対して感謝の手紙を書きます。小学校の時には、ある程度本気で手紙を書きます。
[お母さん、産んでくださり、育ってくださってありがとうございます。これからは、お母さんの話をよく聞いて、一生懸命勉強するいい子になります。] と当時には、自分も本気だと思いましたが、実は嘘だった言葉を、手紙に書いてお母さんに差し上げます。しかし、中学生になるとちょうど反抗期だし、純粋な心を失いました。毎年形式的に書く手紙だから、きっと母さんも形式的に受けるだろうと思いました。それで、手紙の最後にこう書きました。
[お母さん、実は、学校で書かせたので、仕方なく書きました。]
ところで、うちの母がその手紙を受けて、大変失望しました。傷ついたみたいです。母は、自分が大きな約束をしなくても、美しい文章の手紙でなくても、ただ息子に[ありがとう]という一言が聞いたかったのだということを知るようになりました。
神様も同じ心ではないでしょうか。神様が礼拝を通して私たちに願っておられる ことは、素晴らしい献身とか献金ではありません。神様は、神様の恵みに感謝している私たちの心を受けることを願っておられるし、礼拝を通して私たちと交わる ことを願っておられるのです。
私たちが持っていることの中で、神様から受けなかったことがあるでしょうか。 私たちのすべては、全部神様から受けたことだし、神様には必要なことも足りないものもありません。それにも、私たちが神様に供え物を捧げるのは、神様に対する私たちの心を捧げることです。
マタイ6章21節で、イエス様が言われました。
21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
神様が私たちに願っておられるのは、お金ではなく私たちの心です。私たちの心が私たちの宝のある所にあるとすれば、私たちの宝を神様に捧げると私たちの心は、神様に向かうようになるのです。すなわち、私たちが私たちのものを聖別して、 神様に捧げるのは、[神様が私の宝であり、神様こそ私にとって、最高の価値だ。]という私たちの心を神様に告白することです。それがまさに献金だということです。
それなら、神様が願っておられる礼拝は、どんな礼拝でしょうか。本文で神様が 民を責められた内容に答えがあります。
本文14節です。
14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
[一番目に、私たちが神様に捧げるべき礼拝は、感謝の礼拝です。]
感謝こそ信仰の行動であり、信仰がある人だけが感謝ができます。すなわち信仰のない人にはできないのが感謝だということです。
コロサイ2章7節は言います。
7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり 守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
信仰をしっかり守ってあふれるばかりに感謝しなさい。というのは信仰を守らなければ、感謝はできないということです。だから感謝は信仰の行動だということです、
皆さんの周りの人を考えてみましょう。どんな人が感謝を告白しますか。財産が 多くて心配のない人が感謝しますか。成功を重ねてうまくいっている人が感謝するでしょうか。そうではありません。信仰のない人は、財産が多くて成功を重ねてもいつも不平と不満を言って、限りなく他の人に対する批判と悪口を並べ立てます。そんな人には、今、信仰も恵みもありません。
しかし信仰のある人は、神様が授けてくださった小さな恵みにも感謝を告白します。持っているものがなく、大変な現実の中にいても、信仰によって生きようとする 人には、感謝の告白が溢れ出ます。なぜなら感謝は信仰の行動、信仰の証拠だからです。
ところで、へブル11章6節は言います。
6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
なぜ、私たちは感謝の礼拝を捧げるべきでしょうか。信仰のない礼拝では、絶対に神様を喜ばせることができないからです。そして、神様に対する信仰は、私たちの感謝を通して現れるからです。すなわち自分い行われたすべてが神様の恵みであることを信じる人は、いかなる場合でも神様に感謝します。前が見えない苦難の中にいるとしても、神様を信じる人は、神様が恵みを授けてくださることを信じながら感謝を告白します。このように私たちの信仰は感謝を通して証明されるということです。だから、私たちは感謝の礼拝を捧げなければならないということです。なぜなら、神様が喜ばれる礼拝は信仰の礼拝であり、信仰は、必ず感謝を通して現れるからです。
[二番目に、私たちが神様に捧げるべき礼拝は、従順の礼拝です。]
神様の御言葉に従うことは、神様を尊重することであり、神様の権威を認めることです。[アーメン]という言葉は、[神様の御言葉が正しいです。私は、その御言葉の通りになることを信じます。] という意味です。だから私たちは、神様の御言葉を聞いて、アーメンと答えながら、神様を尊重し、御言葉の権威を認めることです。
また、主の御言葉に従うことは、神様に対する私たちの愛の表現です。
ヨハネ14章21節で、イエス様が言われました。
21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
イエス様は、イエス様の戒めを保つ者、イエス様の御言葉に従うが、イエス様を 愛する者だと言われました。というのは、神様の御言葉に従わない者はイエス様を愛しない者だということです。だからイエス様の御言葉を聞いて、従わなければ、それは、私たちがイエス様を無視することであり、イエス様を愛しないことだと いうことです。そんな人の礼拝を、神様が喜ばれるはずがあるかということです。
説教をまとめます。
本文で神様は、神様の民を裁判の中に呼ばれました。彼らの罪は明確です。神様を愛することも、尊重することもしない罪、礼拝を義務と形式で捧げる、この罪に 対して神様が責められました。
私たちの礼拝はどうですか。皆さんの礼拝には、信仰と感謝がありますか。神様に対する愛と尊重がありますか。変化に対する決心と神様を知りたがる熱情はありますか。
神様は、御言葉と礼拝を通して、私たちの自由を制限したり、私たちを縛っておくことではありません。むしろ、御言葉を通して私たちに命の道を教えてくださり、礼拝を通して、神様を私たちに現わそうとされるのです。
イエス様は二人でも三人でもイエス様の御名によって集まった所には、イエス様もともにおられると約束されました。その約束が嘘ではなければ、イエス様は、この場に私たちとともにおられます。
私たちがイエス様を尊重すれば、イエス様も私たちを尊重してくださいます。 私たちがイエス様を切に慕い求めれば、私たちに会ってくださいます。イエス様は感謝と従順を持って主に礼拝する者たちを、今も探しておられます。
新しい一週間も、感謝と従順の礼拝を通して神様を喜ばせる、のぞみ家族になる ことをイエス様の御名によって祝福致します。