ある町に、金持ちが住んでいました。その人は、自分の財産を誇りとして、町の 最高の金持ちというタイトルを失わないために熱心に富を築きました。ところで、ある日、夢の中に天使が出て、[明日、町最高の金持ちが死ぬ] という話をしました。彼は、それが自分だと思って病院に行って検査を受けましたが健康には何の問題もありませんでした。検査結果を聞いて安心していた時、友たちが来て田中さんが 死んだという話をしてくれました。田中さんは貧しい人で家族もない一人暮らしの人でしたがそれでも多くない財産で貧しい人に施し、他の人に仕える人生を生きた人でした。ところで、金持ちの自分ではなく、貧しい田中さんが死んだということです。天使には、田中さんが、金持ちの自分よりも富む者として認められたということです。これを通して、まことに富む者は、お金を集める者ではなく、お金を 神様の御心の通りに使う者だということを悟って、田中さんのように生きるために努力したそうです。
この世で一番高価なものは何でしょうか。ビルディングでしょうか。ゴールドとか宝石でしょうか。それが何であっても、お金で買えないものが一番高価なものなんでしょう。そして、私たちがお金で買えないものの一つが私たちの命であります。というのは、私たちの命こそ、一番高価で、価値のあるものだという話であります。
今日の本文で詩篇の記者は、お金がいかに多くても自分の兄弟を救うことができず、お金で人の罪を贖えないと言います。そして、その理由が8節に書いてあります。
本文8節です。
8 ──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──
あまりにも高価だから、世界のお金を全部与えても買えなく、贖うこともできないのが、人間の命だということです。イエス・キリストがご自分の命で代価を払って贖わなければならないほど、人間の命は高価だという話です。
聖書は、私たちはいつか死を迎える時が来て、その後には、裁きが定まっていると言います。しかし多くの人が、自分の人生の終わりの時を準備することができず、まるで自分の人生が永遠に続きそうに生きて行きます。
そして、自分の財産が代々にまで及ぶと思いながら、自分の土地や建物に自分の 名を付けます。しかし、この世を離れる時には、何も持っていくことができなく、死んだ後には自分のためにできることが何もありません。
それで、本文12節は言います。
12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。
死後の人生を準備せずに滅びるようになると、私たちは獣に等しいということです。いや、救われないとすれば、むしろ獣が人間に勝ります。なぜなら、魂のない獣は死ねば土に戻りますが、救われない人間の魂は、死なないで永遠に地獄で苦しみを受けなければならないからです。地獄が本当に怖いのは、終わりがないからです。人間は、いかに辛くても希望だけあれば、耐えることができる存在です。しかし、苦しみから逃れる可能性もなく、希望もないという事実が、また永遠に終わらないという絶望のゆえに、地獄が地獄になるのです。
韓国では20になった男たちは、みな軍隊に行きますが。私は軍隊で2年2か月間生活しました。ところで、軍人たちは与えられた現実に適応して、熱心に任務を果たしながら生活しますが、軍隊の中での人生を計画する人は一人もありません。軍人 として真面目に生活しますが、軍隊を出た後の人生に対する計画を立てます。なぜなら、2年2か月が過ぎたら軍隊を離れなければならないからであり、軍隊を離れた後、生きる時間は80年だからです。2年2か月の時間が自分の人生の全部だと思ってすべてのことを注ぐ人はいないということです。
それと同じく、この地での人生は長くても100年ですが、死後の時間は永遠です。 永遠という時間に比べれば、地上での100年はちりのようなものであり、100年間の時間が自分の人生の全部だと思って生きることは愚かなことだということです。
だから、今、私たちに最も重要なことは、この地で裕福な人生を生きることでは ありません。富を築くこと、心配なく健康な人生を生きること、子どもたちが成功することなどが、私たちの一番重要な問題ではないということです。
人間は生まれた時から死に向かうカウントダウンが始まります。だから与えられた時間の内に、どうしても永遠の時間のための準備をしなければならないということです。それなら、私たちは、何を、どのように準備すべきでしょうか。私たちは、富む者にならなければなりません。何の話なのか言いますと、自分の命を買える ほどの富む者にならなければならないということです。これから、まことに富む者とは何を言うのか、聖書を調べてみます。
ルカの福音書を読んでみれば、18章には正反対になる人物を対照しながら、福音を説明しています。一番目はやもめと敵、二番目は取税人とパリサイ人、三番目は 子どもと金持ち青年のことが書いてあります。
今日調べてみることは、子どもと金持ち青年のことですが、ある日、町でエリートと認められるある青年がイエス様にやって来ました。その青年は、若い人でしたが、金持ちだったし、役人として社会的にも認められる人でした。また、信仰生活に おいても模範的な人でした。その人が、イエス様に来て尋ねました。
[私は何をしたら、永遠の命を自分のものとして受けることができるでしょうか。]
彼が天国に行く自信がなくて、こう尋ねたでしょうか。そうではありません。彼がイエス様に、聞いたかった答えは、[お前は、今すぐ死んでも、必ず天国に行ける から、心配するな。]という話だったはずです。しかし、イエス様が言われました。
[十戒を守りなさい]
すると、彼が自信を持って答えました。
[そのようなことはみな、小さい時から守っております。]
彼の話は、本当でした。彼は律法をよく守る人だったし、イエス様もそれを知っておられました。しかし、イエス様は、また言われました。
[あなたの財産を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そのうえで、 わたしについて来なさい。]
イエス様がこう言われた理由があります。聖書に出てくるすべての律法の核心は、愛です。すなわち神様は人が愛を行いながら生きさせるために、律法をくださったということです。だから、律法は、愛によって完成されるのです。すなわち、愛のない律法の行いは無意味なことであり、反対に、愛を行う者は律法を全う者として認められるということです。
結局、イエス様が、その青年に言われた御言葉の意味は、
[貧しい者たちに施すことによって、隣人に対する愛を実践しなさい。そして隣人を愛せよという、神様の命令に従うことによって、あなたが神様を愛することを証明しなさい。] という話です。言い換えれば、愛を実践することによって、あなたが本当に十戒と律法を守っているということを表しなさいということです。
しかし彼はイエス様の御言葉に従うことができず、非常に悲しみながらイエス様を離れたと聖書は話します。なぜなら、その人は、たいへんな金持ちだったからです。その金持ち青年が離れる姿を見ながら、イエス様が言われました。
[金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが、もっとやさしい]
イエス様は、金持ちは天国に入ることができないと、はっきりと言われたのです。それなら、皆さんは、金持ちですか、貧しい者ですか。皆さんは天国に入ることができますか。
それなら、いったいどれほど財産が多かったら金持ちになり、どれほど貧乏な人が貧しい者と認められるでしょうか。また先ほど命を買えるほど富む者となるべきだと言ったのに、今は、金持ちは天国に入れないということは何の話でしょうか。
先ほど言ったとおりに、ルカの福音書18章は、正反対の二人を対照しながら福音を説明しています。だから、金持ちに対するイエス様の話を理解するためには金持ち青年の前に出てくる、子どもを調べる必要があります。なぜなら、金持ち青年の 反対が子どもだからです。イエス様は金持ち青年は天国に行けないと言われました。しかし、イエス様は、子どもを抱いて、こう言われました。
[神の国は、このような者たちのものです。]
イエス様が金持ち青年が天国に行けないと言われた理由は、彼が金持ちだったからです。しかし、子どもに対して、天国はこのような者たちのものだと言われたと いうのは、子どもが意味するのは、[貧しい者] だということです。
それなら、貧しい者とは、どんな人を言うのでしょうか。
イエス様が、八つの幸いを言われた時、最初にこう言われました。
[心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。]
結局、金持ちなのか、貧しい者なのかというのは、お金とか財産に対する話では ないということです。イエス様の御前で、私たちの心が裕福なのか、貧しいのかということが重要なことだということです。すなわち、心の裕福な者は、天国に入れなく、心の貧しい者は、天国に入れるという話です。
それなら、いったい心の貧しい者とはどんな人をいうのでしょうか。すでに何回も申し上げましたが、心の貧しい者とは、自分の無力さと無能さを認めて、ただ、 イエス・キリストを信じて頼る人を言います。
金持ち青年は、心の裕福な人でした。財産もあり、社会的な地位もあり、名誉も ありました。しかし、持ち物があまりにも多くて、イエス様がいなくても自分の 力で生きていけると思いました。彼はイエス様が自分の信仰を認めてくれなくても大丈夫だと思いました。なぜなら、他の人たちは、自分の信仰を認めてくれたからです。彼は、イエス様が助けてくれなくても、自分の律法的な熱心によって天国に行けると思いました。一言で、彼は、[イエス・キリストが要らないと思われるほど] 持っている物が多かったから心の裕福な者だったし、その心の裕福さのゆえに、結局、イエス様を離れるようになったのです。
反対に、その前に出た子どもは、どうでしょうか。イエス様は、子どもは、天国に行けると言われたのではなく、子どものような者が天国に入れると言われました。そしてたら、子どものように者とは、どんな者でしょうか。子どもと金持ち青年の違う所があります。それは、子どもは、徹底的に依存的な存在だということです。
子どもたちと一緒にいれば、一番多く聞くようになる言葉は、[ママ~] という言葉です。子どもは、自分の力で何もできない存在です。ママが食べさせなければならないし、着せなければならないし、助けて、教えなければなりません。自ら何かをする時にも、[ママ、これで大丈夫?これ正しいの?] とママに聞きます。
もう一つ、子どもの特徴は、すべての関心がママにあるということです。子どもは、ママに抱かれていながらも、ママの愛に渇いています。それで、ママにすがったり、なでさすりたり、甚だしくは、ママの枕の匂いでも嗅いでこそ安定できるのが、 子どもであります。
遊園地に行ったら、迷子を保護する所がありますが、そこには、子どもたちを安心させるためのおもちゃもあるし、お菓子もあります。しかし、ママを失った子供がおもちゃを持って遊ぶでしょうか。ママがそばにいなければ子どもにはおもちゃもお菓子も何の意味がありません。ただ、ママが来るまで泣いてばかりいるのが子供です。このように子どもは、心がママに満ちていて、いつもママの愛に渇いていて、ママ以外には何も必要ではない、ママに対して絶対依存的な存在だということです。
子どものように、心がイエス様に満ちている人、イエス様以外には、何も必要ではない人、いつもイエス様の愛に渇いている人が、まさに心の貧しい人だということです。そして、天国は、このような者のものだとイエス様は言われました。
この世のすべてを持っている人だとしても、その持ち物では、自分の命さえ買う ことができません。しかし何も持ってない人だとしても、イエス様を所有した人は、命だけでなく、天にあるすべての祝福を持っている人です。またイエス様の御名によって求めるものは、何でも受けることができる人だし、神様の国を相続される 権利を持っている人です。そういう人が、まことに富む者であります。
まことに富む者は、財産が多い人ではありません。心が貧しくて、イエス様がいなければ、生きて行けない人が、まことに富む者であり、イエス様を所有した人が、まことに富む者であります。そして、そのイエス様を所有した者は、死後の永遠の時間を準備することができます。
説教をまとめます。
皆さんは、まことに富む者ですか。皆さんは、天国に入る自信がありますか。 金持ち青年は、自分ぐらいなら天国に入る資格があると思いましたが、イエス様は、彼に天国を許されませんでした。なぜなら天国は心の貧しい者たちにだけ許された所だからです。すなわち、イエス様がいなければ生きられない人、イエス様を得ることができれば、すべてを捨てる覚悟ができている人、イエス様が自分の希望だと信じる人が天国に入る資格があります。
いかにたいへんな金持ちだとしても自分の命を買うことはできません。イエス様を所有した富む者だけが、自分の命を買うことができます。そのイエス様が私たちとともにおられます。私たちは心の貧しい者にならなければなりません。イエス様を所有した富む者となって、地上での100年ではなく、死後の永遠の人生を準備しなければなりません。イエス様を所有した富む者として、天国に希望をおいて生きる のぞみ家族になることを、イエス様の御名によって祝福致します。