詩篇47篇は、王が王座に上っていく姿を描写しながら、神様が全地の王であられることを賛美する詩であります。人間のすべての苦しみと絶望は人間が神様の王座を奪って、自ら王になろうとした時から始まりました。
創世記3章5節で、サタンがこう言います。
5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。
アダムとエバが善悪の知識の木の実を取って食べたのは、ただ単に勝手に果物一個食べたほどの罪ではなく、自ら神になるために神様を反逆した行為だったという ことです。
サタンは、人間に神様のようになれと誘惑して、人間は自ら王になろうとしたから、結局堕落して、罪人になりました。そして、その時から人間には罪の代価としての死と呪いと苦しみと裁きが与えられました。
ところで、詩篇47篇で詩篇の記者は、神様がわれらの王であられることを賛美し、手を叩いて喜び叫べと話しています。今日は、イースターですが、イエス様が復活されたイースターは、イエス様がサタンの奴隷であった私たちを救われ、私たちの王になられた日であります。詩篇47篇を通して私たちが手を叩いて喜ぶべき理由がなんなのか、また、イエス様の復活が意味することは何なのか一緒に考えてみたいと思います。
本文2節です。
2 まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。
詩篇記者は、私たちに手を叩いて喜べと言いながら、その理由として、神様は、 [恐るべき方だからだ]と言います。恐るべき父や兄に浮かべながら喜びや楽しさを想像する人はいないでしょう。それなら、神様が恐るべき方であることが、なぜ 私たちが喜ぶべき理由になるでしょうか。
聖書の下の部分を見れば、詩篇47篇2節の関連聖句として申命記7章21節が書いて ありますが、一緒に読んでみましょう。
21 彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、 あなたのうちにおられるから。
私は生まれて今まで、ほとんど友たちと喧嘩とかしたことがない人ですが、私より七つ上の3番目の姉は、喧嘩が上手な人でした。元々性格がとげとげしい人間だから、たまに口喧嘩はしましたがそれでも自分の姉だから怖いと思ったことはありません。ところで、ある日は、姉が友たちと喧嘩することを見たことがありますが、多くの友たちがぐるっと囲んで立っていて、その真ん中で姉と他の子が喧嘩することを 見ました。多分その時から姉と目が合ったら、目を合わせることができず、視線を落とすようになったみたいです。
しかし姉が喧嘩の上手な怖い人だという事実が、弟の立場で必ずしも悪いことではありませんでした。なぜならその恐るべき姉が自分の姉だからです。私をいじめる子どもたちの前で、うちの姉が恐るべき人だということは、とても心強くて、力になりました。だから、子どものころは、[おい、うちの姉がキム・キョンミンだ。] と言いながら、姉の名前を盾のように使った時もありました。
神様が恐るべき方で、大いなる王だという意実は、私たちに力と慰めになります。われらの敵にとっては、恐るべき神様ですが、その神様が自分の神様になる時には、それより心強くて力になることがないということです。だから、恐るべき大いなる神様が自分の王であられることを、手を叩きながら喜び叫べなさいと詩篇記者は 話しているのです。
ところで過ぎた一週間、週報に出ている通りにイエス様の受難に対しての御言葉を読んで黙想された方はご存じですが、福音書に記されているイエス様の姿は、大いなる方でも、強くて恐るべき姿の王でもありません。むしろ自分のために弁護することもできず、罪人たちから鞭に打たれ、結局、無力に十字架にかかって死なれた、力のない子羊のような姿でした。そんなイエス様を見て、どうして全能なる神様の姿とか私たちを守ってくださる神様を浮かべることができるでしょう。
去年、ダニエル祈祷会で説教したある牧師先生が、こんな話をしたことがあります。[神様は全能なる方です。ところで、その全能というのは、すべてができるという 意味もありますが、できることを行わないことも全能であります。]と言いました。何の話なのか言いますと、罪のないイエス様はいくらでもご自分の無罪を証明して自分を弁護することができましたがしませんでした。イエス様は十字架の苦しみを避けて、死を断る権勢がありましたが避けることも断ることもしませんでした。イエス様は自分を非難して十字架につけた人たちを滅ぼす力がありましたが、そうしませんでした。
恥と悔しさと苦しみを感じるのは、私たちのうちにある本能であります。力のない人であるなら避けたくても避けられなくて恥と悔しさと苦しみを受けるでしょうが、イエス様は違います。
イエス様は、それらを避けることもできたし、反撃することも、復讐することも できたのに、そうしなかったということです。むしろ、イエス様のうちの本能と 本性に逆らいながらまで、キリストとしての使命を果たされたということです。 父なる神様の御心を成し遂げるために、本能と本性に逆らい、神様としての力と 権勢を自ら捨てることのできる、これがまさにイエス様の全能であり、イエス様の力だということです。
もし、イエス様が悔しくてご自分の無罪を弁護されたなら、私たちはどうなったでしょうか。イエス様が人々に憤って彼らを滅ぼされたり、恥と苦しみが嫌だから、十字架を避けられたなら、私たちはどうなったでしょうか。そうしたなら私たちは誰も救われなかったはずです。イエス様は、すべてができる全能なる神様ですが、何もしないことによって私たちを守られ、私たちを救われたということです。
20年前に韓国で祈祷院に行ったことがあります。その時、祈祷院の院長牧師先生が説教の中でこんな話をしたことがあります。
[多くの人が能力を受けるために祈祷院に来ます。そして、霊的賜物を求めます。 しかし、皆さん、まことの能力は霊的賜物ではありません。神様の御言葉に従う ことこそ、最も大きな能力です。なぜなら、御言葉に従うことが一番難しいこと だからです。だから、霊的賜物を求めないで、神様の御言葉に従える信仰を求め なさい。]
その先生はこう語りました。すなわち、いかなる場合でも、苦しみとか死の前でも、神様の御言葉に従える信仰、それこそ、何よりも大きな能力だということです。
イエス様を十字架につけた人たちも、そしてサタンも、イエス様の死が失敗だと 思いました。彼らは、イエス様の死によって、自分たちが勝利したと信じました。しかし、むしろイエス様の能力は、父なる神様に従う所で現れました。イエス様の死は、サタンの頭を踏み砕いてしまう、最も強い攻撃になって、イエス様の復活は、死の権勢までも打ち勝ってしまう完全な勝利になりました。イエス様はそのように恐るべき大いなる方であり、私たちの全能なる王であられるから、私たちは手を 叩きながら、イエス様を喜び叫ばなければならないということです。
それなら、次に考えてみることは、イエス様の復活が、私たちに何を意味することでしょうか。
[一番目に、イエス様の復活は、イエス様がまことのキリストだということを意味します。]
人間が死に至るようになった理由は罪のゆえです。すべての人は自分の罪によって死に至るということです。だから、罪のない存在だけが、人を罪と死から救える キリストになれます。
ところで、ローマ1章4節は、こういいます。
4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子と して示された方、私たちの主イエス・キリストです。
イエス様は復活することによって神様の子どもとして示されたと聖書は言います。私たちの罪のために死なれたイエス様が復活されたという事実は、イエス様には 罪がないということを証明することです。
もしイエス様に罪があったならば、イエス様も他の人々のように自分の罪によって死ななければならなく、裁きから逃れられなく、人の罪を贖うことができなかったはずです。しかし、イエス様は、死を逃れ、復活されることによって罪がない方であられることが証明されたのです。またイエス様は、私たちのように罪人アダムの子孫ではなく聖なる神様の御子だという事実が証明されたのです。そういうわけでイエス様の復活は、イエス様こそ私たちを罪と死から救われる、まことのキリストだということを示しているのです。
[二番目に、イエス様の復活は、私たちの罪の代価が完全に払われたということを 意味します。]
誰も罪を犯せば、その罪に対する代価を払わなければなりません。それは、世界の法においても、聖書の律法においても同じです。
ところで、どんな罪を犯しても、裁判長が宣告したその罪の代価を払った後には、その罪から逃れることができます。例えば、懲役10年の刑罰を宣告された人が、 刑務所で10年間、その罪の代価を払ったら、もはや彼を刑務所に閉じ込めることができません。法というのはそんなものです。法が定めた罪の代価を払ったら、その罪から逃れられます。
ところで、神様の法も同じです。聖書の律法が定めた罪の代価を払ったら、罪から逃れられます。ところで、罪人に与えられた罪の代価は、永遠の死であり、滅亡であります。だから、罪人は、地獄で永遠に刑罰を受けながら自分の罪の代価を払わなければなりません。しかし、罪によって死ぬべき私たちのために、イエス様が 代わりに死んでくださいました。イエス様が十字架を通して私たちの罪の代価を 代わりに払ってくださり、私たちが受けるべき罪の刑罰を代わりに受けえくださいました。
ところで、もしイエス様が復活されなかったら、どうなるのでしょうか。
Ⅰコリント15章17節です。
17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰は むなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
罪を犯した人が刑務所から出るということは、罪の代価が全部払われたという意味でしょう。ところで、罪人の私たちの代わりに刑罰を受けられたイエス様が、復活されなかったなら、それは何を意味するでしょうか。それは、私たちの罪の代価が払われなかったということ意味することです。言い換えれば、もしイエス様が復活されなかったなら、私たちの罪の代価が払われなかったことだから、私たちは地獄に行かなければならないという意味なのです。
しかし、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに死なれたイエス様は、三日目によみがえられました。というのは私たちの罪の代価が少しも残らず、全部払われたという意味であります。
イエス様が私たちの代わりに刑罰を受けることによって私たちの罪の代価を払ってくださったから、私たちは罪から解放されたことであり、誰も私たちを罪に定めることができません。なぜなら、イエス様の復活は私たちにとって無罪判決のような事件だからです。これが、まさにイエス様の復活が私たちに与える意味なのです。
[三番目に、イエス様の復活は、イエス様が、私たちの敵である死に打ち勝ったと いうことを意味します。]
へブル9章27節です。
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている ように、
人間において最も大きな恐れは、死に対する恐れであります。なぜ、人間は、死を恐れるでしょうか。その理由は、死後に自分を待っていることが苦しみと滅亡で あることを本能的に知っているからです。
人間は、死に対する恐れを克服するために、宗教を作ったり、科学と技術に頼ろうとします。しかし、死を逃れようとする人間のすべての努力はむなしいことです。しかし、イエス様が唯一の希望になる理由は、イエス様は死に打ち勝った唯一の方だからです。イエス様は私たちの敵である死に打ち勝って復活されました。そして イエス様は、イエス様を信じる者たちにイエス様の復活の命をくださいました。 イエス様を信じる私たちに与えられた命は、死に打ち勝って復活されたイエス様の命だということです。だから、復活の命を持っている私たちは、もはや死の支配を受けなくなり、永遠の命を味わうようになったのです。
韓国の刑務所で宣教する牧師先生の証しを聞いてみれば、死を迎える死刑囚たちの姿が二つに分かれるそうです。いかにものすごい犯罪を犯した人だとしても刑場に行く時には、怖くて自分で歩くことさえできないそうです。そして、死に対する 恐れのゆえにほとんどは泣いたり、おしっこをもらしたりするそうです。彼らは、イエス様も聖書も知りませんが、死後に自分を待っていることが裁きと滅亡であることを本能的に知っているから恐れるということです。
しかし、刑務所の中で福音を聞いて、イエス様を受け入れた人たちは、刑場に行きながらも死を恐れないそうです。刑場まで歩きながら、自分を救ってくださった イエス様を賛美して、周りの人たちに福音を伝えるそうです。イエス様を信じて 救われた彼らにとって、死はもはや恐れではないということです。
何がこんな違いを生み出すのでしょうか。それは、その人のうちに死に打ち勝ったイエス・キリストの復活の命があるかどうかが生み出すことです。復活された イエス様の命を持っている者たちは、死を恐れません。なぜなら、死が自分を支配できないということを知っているからであり、また死後に自分を待っていることが裁きではなく、永遠の天国であることを知っているからです。
イエス様の復活は、このように私たちの敵である死から勝利された偉大な事件で あり、ひいては、私たちをも死から勝利させる素晴らしい恵みだということです。これがまさにイエス様の復活の意味であります。
説教をまとめます。
イエス様は、十字架に死なれることによって私たちを救ってくださり、私たちの 敵であるサタンと死に打ち勝つことによって、私たちの王になってくださいました。
人間のすべての苦しみと絶望は、自分が王になろうとする罪から始まりました。 だから、キリストの復活を信じ、救われた私たちは、もはや自分の心の王座から 降りてきて、自分の王座にイエス・キリストをつかせなければなりません。人間の苦しみと絶望は自分が王になろうとする悪から始まりますが、人間の勝利と幸せはイエス様を自分の王にすることから始まります。
新しく始まるこの一週間、イエス様の復活の意味を黙想しながら、その恵みの中で過ごす、のぞみ家族になることをイエス・キリストの御名によって祝福致します。


