25年4月13日_十字架上の七つの言葉

説教と証し

聖書を読んでみれば、イエス様が十字架にかかった後、十字架の上で七つの言葉を言われました。それは、苦しみの中でも必ずしなければならないほど重要な言葉 だったということです。十字架上イエス様の七つの言葉を通して、私たちは、イエス様がどんな方なのか、また、どんな目的を持ってこの地に来られた方なのか、そして、なぜ私たちはイエス様を信じなければならないのかを知ることができます。それなら、これから、イエス様が十字架の上で、どんなことを言われたのかを調べてみたいと思います。

十字架の上で、イエス様が言われて、一番目の言葉は、[父よ。彼らをお赦しください。] という言葉でした

イエスという御名の意味は、[ご自分の民をその罪から救ってくださる方] です。 そして、人々を罪から救われる存在がまさに、キリストであります。イエス様の 言葉を通して知れることは、イエス様は、人間の罪を赦す権勢がある、キリストだということです。

ところで、イエス様が神様に赦してくださいと言われた対象は誰だったでしょうか。イエス様を裏切った者たちとイエス様を十字架にかけた者たちでした。十字架上 イエス様の言葉は、イエス様の死はすべての人のための死であり、イエス様はすべての人を愛されるということを表しているのです。

十字架の上で、イエス様が言われて、二番目の言葉は、[あなたはきょう、 わたしとともにパラダイスにいます。] という言葉でした

この御言葉を通して知れることは、イエス様が天国の主人だということです。イエス様は私たちを天国に導いてくださる方であり、私たちの罪を洗って天国に入れる資格を持たせる方だということです。

イエス様がキリストとしての使命を果たされた後、最初に天国に入る栄光を受けた人が誰でしょうか。イエス様の右の強盗でした。一生誰かに褒められることはしたこともなかった人だったし、すべての人に憎まれた強盗がイエス様と一緒に天国に入った最初の人になったということです。しかし、同じ悪人でしたが、イエス様の左にいた強盗は、イエス様をキリストとして認めることもイエス様を信じることもなかったので、結局死後に地獄に行くようになります。

イエス様が十字架にかかった時、その左と右には、二人の強盗が一緒に十字架に つけられました。その日、三つの十字架は私たちに明らかなメッセージを与えています。イエス様のそばにいた強盗たちのように、すべての人間は罪人であり、裁かれるべき存在だということです。

しかし、十字架の上で言われた主の御言葉は、それよりもっと明らかに私たちに 話しています。

[誰でも、イエス様を信じ受け入れた人は、救われて天国に入る。]

イエス様が十字架の上で言われた御言葉は、私たちにこれを話しているということです。

十字架の上で、イエス様が言われて、三番目の言葉は、[女の方。そこに、あなたの息子がいます。] という言葉でした

イエス様が死なれる前に、十字架の上で、母のマリヤを弟子ヨハネに委ねます。 その時から、ヨハネはマリヤを自分の母として仕えます。マリヤには、イエス様 以外に他の子どもたちもいたのに、なぜイエス様は、ヨハネにマリヤを委ねたでしょうか。イエス様は、マリヤのことを心配していなのです。聖書を読んでみれば、イエス様をキリストとして信じることが難しかった人の中一人がまさにマリヤでした。なぜなら、マリヤには、キリストとしてのイエス様より自分が産んで父を飲ませて育てた、自分の息子としてのイエス様が先に見えたからです。それで、聖書を読んでみれば、イエス様を見ながら、その方がキリストなのか、自分の息子なのかという葛藤の間で苦しんでいるマリヤの姿が表れています。

ヨハネがマリヤと一緒に住みながら何をしたでしょうか。マリヤは知らなかった キリストとしてのイエス様に対して毎日話してくださったでしょう。そのように 毎日、息子ではなく、キリストであるイエス様に対して教えるために、マリヤを ヨハネに委ねたのです。イエス様は、自分の働きが終わったからといって、放っておいて離れる方ではなく、最後まで、ご自分の人たちを愛され、責任を負ってくださる方だということです。

ところでイエス様は、マリヤだけヨハネに委ねたことではありません。イエス様はイエス様が離れた後、この世に残される私たちも聖霊様に委ねて天に昇られました。

キリストであるイエス様は、聖霊様に私たちを委ねることによって救いの働きを 完成されたということです。そして、聖霊様は御言葉を通して私たちにキリストであられるイエス様に対して教えてくださいます。十字架上イエス様の最後の御言葉は、イエス様が絶対に私たちをあきらめることもなく、放っておかれることもないお方だということを私たちに話しているのです。

十字架の上で、イエス様が言われて、四番目の言葉は、[わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。] という言葉でした

聖書は、[罪の報酬は死だ]と言います。ところで、死というのは、体の命が終わることを言うのではありません。むしろ罪の代価として私たちが死んだから死の症状の一つとして私たちの体が死に至るのです。

それなら、聖書が言われる罪の代価としての死とは何でしょうか。それは、命の源であられる神様との関係が断絶されることを言います。神様との関係が断絶されることが死であるなら、反対に救いとは、命の源である神様との関係が回復される ことになるでしょう。

罪人の私たちは罪の代価として神様との関係が断絶され、魂が死んでしまいました。それで私たちが救われるためには、神様との関係が回復されなければなりませんが、そのためには、誰かが私たちの罪の代価を払って、私たちの罪を贖わなければなりません。ところで、イエス様が、十字架の上で、神様にこう言われました。

[わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。]

罪の代価は死、すなわち神様との関係が断絶されることだと申し上げました。  ところでイエス様が私たちを救われるために私たちの罪の代価を代わりに払われたということです。すなわち、私たちの代わりに神様から捨てられたということです。そのようにイエス様が私たちの罪ん代価を払ってくださることによって、私たちの罪が赦されました。そして罪によって断絶された神様との関係が、再び回復されて私たちが救われるようになったということです。

イエス様の最後の御言葉は、私たちが救われるようになったのは私たちの熱心とか善い行いによらなく、イエス様の恵みであることを表しています。すなわち、主が 神様に捨てられることによって死んでくださったから、罪人の私たちが、神様に 捨てられず、救われるようになったということを、私たちに話しているということです。

十字架の上で、イエス様が言われて、五番目の言葉は、[わたしはく。] という 言葉でした

神様を離れた人間が避けることのできない苦しみは、魂の渇きです。魂の渇きは、お金が多くても解決できません。人間関係を通して解決できるものでもありません。魂の渇きは、ただ神様との関係を通してだけ解決することができます。

キリストとして来られたイエス様は、この世を生きながら私たちが受けるべき、 苦しみを代わりに受けてくださいました。私たちを富む者にするためにキリストが貧しくなって、私たちの癒しのために主が鞭に打たれ、私たちに平安をくださる ために主が懲らしめられました。そして、私たちの渇きを満たしてくださるために神様であるその方が、私たちの代わりに渇きの苦しみを受けられました。

イエス様が言われました。

[だれでもいているなら、わたしのもとにみなさい。]

私たちの代わりに渇きの苦しみを受けられたイエス様が、生ける水の源になって くださいました。それで、私たちは主の恵みと中で、永遠に渇くことなく、豊かな命を味わうようになったのです。十字架上、イエス様の御言葉は、キリストであるイエス様こそ、生ける水の源であり、命の源であることを表しているのです。

十字架の上で、イエス様が言われて、六番目の言葉は、[完了した。] という言葉でした

創世記を読んでみれば、創造主であられる神様は、六日間天地を創造して、神様が計画したすべてのことを完了した後、それを記念しながら安息日を定められました。安息日は、ただ家で休む日ではなく、創造主神様の完全な御業を記念しながら、神様に栄光を帰する日だということです。

ところで救い主として来られたイエス様は十字架上で救いの御業を完成されました。そして、[完了した]と言われて、救い主としてすべての計画が完了したということを表されました。

創造主神様は、すべての万物を創造して後、それを見ながら、[非常に良かった] と言われました。それなら、十字架上で救いを完成されたイエス様は、どんな気持ちだったでしょうか。きっとイエス様も、ご自分が成し遂げられた救いの御業を見ながら、[非常に良い] と感じられたはずです。イエス様は私たちのために受けられた苦しみと死を後悔せず、非常に喜ばれる方だということです。

十字架上でのイエス様の御言葉は、私たちに対する神様の御心が恨みとか復讐ではなく、喜びと幸せだったということを、また私たちのために苦しめられ、死なれたことをこの上ない喜びと思われるということを表しているのです。

最後に、七番目に十字架の上で、イエス様の言われた言葉は、[父よ。わがを  御手にゆだねます。] という言葉でした

イエス様が父なる神様に、これを言われたというのは、イエス様が私たちのために死なれたのは、父なる神様の喜ばれる御心だったということを表しているのです。イエス様は、キリストとしての使命を果たした後、この御言葉を言われて、父なる神様の御胸に抱かれました。それと同じく私たちにも地上で果たすべき使命があり、神様の御心があります。そして、その使命を果たして、神様の御胸に抱かれる日、私たちもイエス様のように告白するようになるはずです。

[父よ。わがを御手にゆだねます。]

たまに、私たちは、人生の中で理解できない試練に会います。私たちが願う通に ならない時もあり、私たちの望みとは反対の状況を迎える時もあります。また、 時には、後悔する時もあり、悔い改める時もあり、多くの悩みと心配の中で生きるようになるはずです。しかし、人生の終わりの瞬間には、私たちも神様の御前で、この告白をするようになるはずです。そして、今まで過ぎてきたすべての時間が、それが苦しみであれ、後悔であれ、すべてが神様の御心のなかで行われたという ことを悟るようになるはずです。

十字架上でイエス様の御言葉は、私たちのすべての人生が神様の御心と摂理の中で与えられたことであり、私たちはの人生が終わる日、私たちは神様の御胸に帰る ようになるんだということを話しているのです。

説教をまとめます。

十字架上でイエス様が残された七つの言葉は、イエス様こそ、まことのキリストであられるということを表します。そして、キリストであるその方が私たちのために何を成し遂げられたのか、何のためにそんな人生を生きられたのかを、私たちに 話しています。

イエス様の苦しみは、決して小さかったり、軽い者ではありませんでした。主の 苦しみを知っている人は、これ以上罪人として生きることができず、イエス様を 信じる前の生活を繰り返してもいけません。イエス様が苦難を受けられたから、 私たちが平安を味わうことができ、その方の苦難によって私たちは、希望を持つ ことができ、幸せになることができるのです。

受難週間として守るようになるこの一週間、イエス様の苦難と恵みを覚えながら、敬虔に過ごす一週間になることを、イエス様の御名によって祝福致します。