私が幼い頃、韓国の小学校では、子どもが入学したら学校に適応するまで何日間は、お母さんと一緒に学校に行って、授業が終わったらお母さんと一緒に帰りました。そして、子どもが学校生活になれたら一人で学校に通いました。ところで、うちのクラスに2週間が過ぎるまで学校に適応できなくて、お母さんと一緒に通った子供が二人いましたが、その中一人が私です。
母は、子どもが始めた母の胸を離れて、新しい環境に出ることが大変になることを知っています。母は子どもが自分の体より大きなランドセルを背負って学校に行くことも、新しい生活に適応することも、できるならば自分が代わりにしてやりたい気持ちです。しかし、子どものためにそうしてはいけないから、子どもが大きな カバンを持って学校に行って、夏の暑さと冬の寒さに耐えて、社会生活と人間関係の問題にぶつかるとしても、子どもをその苦しみの中に送り出すしかありません。肉の親がそうであれば、私たちのすべてを知っておられる父なる神様は、私たちを世の中に送り出され、私たちを苦難の中においておかれる時、どんな気持ちなのでしょうか。
本文1節です。
1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
考えてみれば理解ができない言葉です。本当に私たちを愛しておられる方であれば、私たちの避け所になる前に、私たちが苦しみに会わないように守ってくださるべきではありませんか。本当に私たちの助けであれば、私たちに助けが必要な状況が 起こらないように守ってくださることが当たり前のことではないかということです。それなのに、なぜ神様は、苦しみに会わせて後、私たちの避け所になり、私たちが問題と欠乏にぶつかった後に私たちの助けになるのでしょうか。結論から言えば、神様が私たちに与えようとするのは、問題解決とか祈りの答えではなく、神様ご自身だからです。神様ご自身を私たちにくださるために、時には私たちを苦難と問題の中に送り出されるということです。
私たち人間は、自分が持っていることは何でも当たり前に思う傾向があります。 それで、それが感謝なことで、神様の恵みであることを知らない時が多いです。 そして、それを失ってしまった後に、初めてそれが自分に大切なことであり、主の恵みだったということを悟ります。
イスラエルの荒野は元々燃える蛇とサソリが多い地域です。しかし、なぜなのか、イスラエルの民は荒野での40年間、燃える蛇やサソリを見たことがありません。 だから彼らは、燃える蛇とサソリの害を受けないことを当たり前に思いました。 しかし、イスラエルが神様に対してずっと不平して恨むと神様は彼らが当たり前に思っていたその恵みをしばらくの間取り去ります。すると、多くの人たちが燃える蛇にかみついて死にました。これを通して、彼らは自分が味わっている平安が、 決して当たり前のことではなく、神様の恵みであることを悟りました。
神様は、私たちが何の問題と欠乏を感じないように私たちを守り導くことができる方です。しかし、平安と満足の中に生きる人間は、それが恵みだと思わなく、 当たり前だと思います。そして、恵みを悟れない人は、結局神様が必要ではないと思うようになります。それで、人間には、イエス様を覚えさせて、自分にはイエス様の助けが必要たということを悟らせる契機が必要です。だから、神様は、時には私たちに苦難と欠乏も許されるのです。
今日の詩篇を書いたコラの子孫は、どうして主が自分の避け所であり、助けであることを悟ったでしょうか。もし、彼が苦しみと欠乏に会えなかったならば、彼が 主の助けを求めたでしょうか。そして、そのように神様の助けを求めながら祈らなかったならが、神様が自分の避け所、自分の助けであることを悟ることができたでしょうか。
本文5節です。
5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを 助けられる。
私たちが苦しみと欠乏の中で、神様に祈っても、私たちの状況と現実が劇的に良くならない時がもっと多いです。健康が劇的に良くならなく、問題が奇跡的に解決されなく、だからといって険しい現実が良くなることでもありません。しかし、詩篇の記者は言います。
[神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。]
強い敵が都を囲んで攻撃するとしても、健康が回復されないとしても、問題が解決されなく、昨日と同じ現実だとしても、神様がそのまなかにおられれば、神様だけ自分のうちにおられ、自分に神様を信頼する信仰だけあれば、私たちはゆるがないということです。
最近、ネットフリックスに良いドラマが出て、見たことがありますが、[おつかれさま] というタイトルのドラマです。ある夫婦の人生を描いた物語ですが、とても感動があるドラマだから、皆さんも機会があれば、一度見てください。そのドラマで、娘の名前が、[クンミョン] ですが、父は、いつも娘にこう言います。
[クンミョン、できるでしょう?パパがあなたの後ろにいるよ。できなかったら、 すぐパパに走って来てね。]
実際に、その娘がすべてをあきらめてパパに走っていったことは、ありません。 しかし、その娘は、パパがいつも自分の後ろにいるという事実を信じたし、いつも走って行って抱かれるパパが自分を待っているということを信じながら、人生の 苦しみと問題を一つ一つ乗り越えていきます。パパが自分の後ろにいるということを信じる信仰が多くの苦しみを克服できる力になったということです。
過ぎた時間にも申し上げましたが、神様が私たちに願っておられること、本当に 私たちに与えようとするのは、私たちの前にある問題を一つ一つ解決することではありません。それらのことは、神様の拍手くしゃみ一回で、解決され消えてしまう問題です。主が私たちにやりたい言葉が、まさに、ドラマの父が、娘のクンミョンに話した言葉であり、父なる神様が私たちに与えようとされる信仰が、まさにその信仰だということです。
[パパがあなたの後ろにいるよ。できなかったら、すぐパパに走って来てね。]
問題があっても、苦難があっても、自分の後ろには自分の避け所であり、助けに なる神様がおられ、いつでも走って行って抱ける父の御胸があるということを、 父なる神様は、子どもの私たちに教えたがるのです。
ある日、イエス様がいない時に、ガリラヤ湖を渡っていた弟子たちに、再び嵐が 起こりました。しかし、弟子たちとしては、その嵐に乗り越える方法がありませんでした。強風が吹いて大きな波が起こり、櫓を漕いでも船が前に進みませんでした。船の中に水が満ちて、もはや船が水の上にあるか、水の下にあるかも分からない 状況であって、漁師出なかった2/3の弟子たちは、船酔いのゆえに力になりませんでした。
さらに、あちらから、長い髪の幽霊が水の上を歩いて、弟子たちに来ていました。弟子たちが怖くて、イエス様から学んだように、大声で命じました。
[イエスの御名によって命じる、幽霊よ、去っていけ!]
それでも、幽霊が彼らに向かって歩いてくると、他の弟子が言います。
[イエス様のように、手を伸ばして命令してみて。]
しかし、それでも幽霊が離れないから、また他の弟子が責めながら言いました。
[ナザレ! ナザレがぬけているじゃん!]
それで、最後に悲鳴に近い声で命じました。
[ナザレのイエスの名によって命じる、幽霊よ去っていけ!]
しかし、その幽霊が離れず、弟子たちに言いました。
[しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない]
その方は、幽霊ではなく、イエス様でした。その方がイエス様であることを知る ようになった瞬間、涙と鼻水まみれになった弟子たちは、何を感じたでしょうか。
[これで助かった。]
イエス様が来られることを見て弟子たちは安心して、平安が訪れたということです。
ところで、弟子たちが処した状況の中で、一つでも変わったこととか、よくなったことがありますか。イエス様が歩いてこられる間、風が止めましたか。イエス様が言われた後に波が静まりましたか。さもないとイエス様が働かれるまで船に満ちていた水が減ったでしょうか。そうではありません。状況は一つも変わらず、むしろ船はだんだん沈んでいました。
しかし、イエス様がともにおられるということを悟り、その方が守ってくださるという信仰が入った瞬間、風と波を超えた平安が訪れました。このように、問題と 苦しみがあっても現実と状況を超えてイエス様による平安を味わうこと、これが 父なる神様が、子どもの私たちが本当に与えようとされることだということです。
その日、弟子たちの中には特別な信仰を持っていた人がいました。他の弟子たちは相変わらず現実と状況だけ見ながら、[主が、風と波を解決くださるだろう]と思いましたが、ペテロの目線はほかにありました。ペテロは、風と波ではなく、波を 踏んでおられるイエス様をみました。そして、その瞬間ペテロが言います。
[主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じて ください。]
ペテロがこれを言った時、イエス様は本当に嬉しかったはずです。ペテロの言葉の通りにイエス様が彼に来いと命じられました。するとペテロは風と波を超えた平安を味わうだけでなく、風と波を踏み、状況と現実を超えてイエス様に歩いて行く ことができました。もちろん、途中で風を見て怖くなり、水に沈みましたが、それでもイエス様はその日、ペテロの信仰と勇気を喜ばれたはずです。イエス様は私たちがただ問題と苦難を耐えることだけでなく状況と現実を踏んでその向こうにおられるイエス様に進み行くことを望んでおられます。
私たちにとって目的のない苦難はありません。主が私たちに問題と苦難を許される時には、その苦難を通して私たちに成し遂げようとすることがあるということです。ところである人は、問題と苦難が訪れば目の前の問題にだけ集中し、それが解決されることしか関心がありません。そんな人は続いて問題に縛られて生きるしか ありません。問題が解決されたら、しばらくの間平安になって、再び問題が起こったら、同じく気落ちして、苦難の中に沈みます。なぜなら、問題を解決されることにだけ目的があるからです。
しかし、ある人は、問題と苦難が訪れたら、問題と苦難ではなく、その向こうに おられるイエス様を見つめながらその問題をくださったイエス様の御心を求めます。すなわち問題ではなくイエス様に集中するということです。そんな人には、問題があるかどうかが重要ではありません。むしろ問題ではなく主を見つめながら信仰を持って主に求めます。
[主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じて ください。]
問題に縛られることでなく、問題の波を踏んで、問題の向こうにおられる主を見て進むということです。イエス様は、私たちにそれを与えようとされるのです。 クンミョンの後ろでクンミョンを守ってくれた父のように、私たちの父なる神様も問題と苦難があっても、私たちが父なる神様を信じる信仰にもって大胆に生きる ことを望んでおられるということです。
5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
太陽は、暗闇の末に姿を現します。そして太陽が昇ったら暗闇は去っていきます。イエス様も同じです。イエス様は、私たちが暗闇の中にいる時、光であるご自身を姿を現され、私たちが嵐の中にいる時、全能の神様として私たちに歩いて来られる方であります。
皆さんの前にある苦難の夜が深くなったとすれば、また、皆さんが嵐の真ん中に 立っているとすれば、今は、絶望する時ではなく、むしろ私たちのために働かれるイエス様を期待すべき時であります。なぜなら、イエス様は、暗闇の中光として、嵐の中助け主として私たちに歩いて来られる方だからです。
なぜ、イエス様は、私たちの人生の深い夜に来られるでようか。なぜ、イエス様は嵐の中で私たちに来られるでしょうか。昼間の間、天に星が見えないのは、星が その場にないからではありません。星は、いつもその場で同じく光っていますが、天が明るい時には星が見えません。むしろ夜が深くなり、天が暗い時、星は一番 明るく光ります。
イエス様の恵みは数多くの星の光のようにいつも私たちを照らしています。しかし私たちが平安の中にいる時には、それが恵みであることが分かりません。むしろ、私たちの人生が暗闇の中にある時、その時、初めてイエス様が私たちのために照らしておられる恵みが見えるのです。暗闇があってこそ光が光であることを分かる ように、私たちは、苦難と欠乏を通して初めて神様が神様であられることを知る ようになり、恵みが恵みであることを悟るようになるんだということです。
苦難の中で、深い暗闇の時間を過ごしておられますか。嵐のような現実の中で、 死にそうな恐れを感じておられますか。それなら、今が主がまさに働かれる時です。私たちは暗闇ではなく暗闇の中で光っている主の恵みを見つめなければなりません。嵐ではなく、嵐の中で私たちに歩いて来られるイエス様を見い出さなければなりません。イエス様が、光として私たちに来られ、私たちの深い夜を終えて、すべての暗闇を追い出されるはずです。私たちの嵐のような現実の上におられるイエス様が私たちをして波の上を歩ませるはずです。暗闇と嵐の中で私たちにやって来られるイエス様は、私たちに言われます。
[しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない]
イエス様がともにおられれば、何も私たちを揺るがすことができません。問題と 現実ではなくその向こうにおられる主を見つめる人は、現実に支配されることではなく現実の波を踏んでイエス様に歩いて行けます。
イエス様が私たちの後ろにおられます。私たちにはいつでも走って行って抱かれることのできるイエス様の御胸があります。その信仰によって平安を味わい、大胆に現実に立ち向かう、私と皆さんになることを、主の御名によって祝福致します。