詩篇45篇は、王の結婚式で使われた歌です。ところで内容だけみれば、王の結婚式という儀式に使われた歌ですが、霊的意味で解釈するとキリストとその花嫁である教会との結婚を意味する内容の詩が詩篇45篇です。それで、詩篇45篇を読む時、 王はキリスト、そして花嫁は、イエス様を信じる者たち、すなわち教会だという ことを思いながら読まなければなりません。
韓国では、結婚式に司会者あります。花婿の一番親しい友たちが、結婚式の司会になりますが、彼は人々の前で花婿の良いこと、褒めるべき姿を紹介しながら、この結婚は、本当に祝福だ、あの人と結婚する人は、最高の祝福を受けた人だという ことを表します。
本文の記者は、コラの子孫ですが、例えば、コラの子孫がこの結婚式の司会者なのです。コラの子孫は、キリストの花嫁、すなわち、教会に、花婿であるキリストを誇っています。この方の花嫁になる人こそ最高の祝福を得た人であり、キリストの愛を受け入れたことは、あなたの人生において最高の選択であり、最も大きな祝福だということです。
本文1節です。
1 私の心はすばらしいことばでわき立っている。私は王に私の作ったものを 語ろう。私の舌は巧みな書記の筆。
結婚式も儀式であり、礼拝も儀式です。そして司会者が花婿を誇るように、礼拝においてもイエス様を賛美することが重要であります。いつか、同期宣教師がこんな質問をしたことがあります。
[もし、礼拝の中で、たった一つだけ選択しなければならないとすれば、あなたは、何を選択する。]
すなわち、礼拝において賛美と祈り、説教と献金の中で何が一番重要なことだと 思うかという話でした。
皆さんは、どう思いますか。もちろん、このすべてがあってこそ礼拝になりますが、その中で、重要なことが何なのかということです。
私は賛美だと答えました。もちろん、礼拝において一番大きな比重を占めるのは、説教です。しかし、礼拝には、私たちが神様に捧げる部分と私たちが神様に受ける部分もあります。賛美と祈りと献金は、私たちが神様に捧げる部分であり、説教は私たちが神様から受ける部分です。もちろん、私たちは、神様からいただいた 御言葉を従順を通して再び神様に捧げなければならないという意味で、説教も結局捧げることになります。
私たちが神様に捧げるものの中で、一番重要なことは、賛美です。なぜなら神様は、賛美を受けるために私たちを作られたとイザヤ書で言われたからです。すなわち、私たちの存在の目的は、神様を賛美することだということです。そういうわけで、礼拝において最も重要なことは賛美であり、賛美に失敗すれば、その礼拝は失敗になるのです。
コラの子孫は、こう言います。
[私の心はすばらしいことばでわき立っている]
賛美というのは、私たちのうちから沸き立つ喜びと感謝を歌という形式を通して、表現することです。すなわち賛美とは、歌ではなく、神様に対して沸き立つ感謝と喜びと誇りだということです。
たまに、礼拝で賛美しない方に聞いてみれば、いろんな理由を言います。賛美が 楽しくない、知らない賛美だから、賛美リーダーの歌が下手だから。ところで、 賛美が楽しくなく、賛美に恵まれないという話より可哀そうな言葉がありません。なぜなら、賛美は、外から内に入るのではなく、私たちのうちから外にあふれ出るものだからです。すなわちメロディーと歌詞が良いから歌ってみようかとするのが賛美ではなく、心の中に満ちている神様に対する喜びと感謝が外に溢れ出ることがまさに賛美だということです。
皆さんも、メジャーリーグ、LAドジャースの大谷選手をご存じですね。ある人が言います。
[昨日、大谷選手のホームラン見た?]
誰かその話を始めれば、その試合を見た人たち、彼のプレーによって喜びを感じた人たちが、[俺も見た! 昨日は、本当に素晴らしかったですよね!] としながら、 その試合を見た人たちが一人ずつ集まります。そして、そのプレーを通して同じ 感動を受けた人たちが、同じ心で大谷選手を褒めて、まるで自分がホームランを 打ったように誇りますね。
これが、賛美の本質です。賛美は、雰囲気を盛り上げて、人々をして礼拝したい 心を持たせることではありません。大谷選手の試合を見た人であれば、誰もが経験してみたその感動と喜びのゆえに彼を褒めることのように、神様の恵みを経験してみた人であれば、みんなが知っているその喜びと感激で、神様を褒めたたえること、それがまさに賛美だということです。
だから、賛美が楽しくないという言葉より悲しくて、可哀そうな話がないという ことです。なぜなら、その人は、まだ人生の中で神様の恵みを経験したこともなく、神様がどれほど素晴らしい方なのかも知らないという話だからです。
チャールズ・スポルジョン先生が、こう言いました。
[感謝と賛美で熱くなった心の鍋に炒めた、香ばしい捧げ物と献身を捧げるのが、 まさに礼拝だ。]
すなわち神様を賛美する心がなければ、いかに良い捧げ物と献身を捧げても意味がないということです。礼拝に失敗することを当たり前に思ってはいけません。主は自分を愛されるから、礼拝に失敗しても天国には行けるだろうと思いながら神様の愛を利用しようとしてはいけません。神様は、私たちに騙されるほど愚かな方ではありません。自分自身のために、礼拝に最善を尽くすのぞみ家族になることを主の御名によって祝福致します。
次に、結婚式に司会者であるコラの子孫は、なぜ花婿であられるキリストを喜んで、褒めたたえるべきか話します。
2節です。
2 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。
キリストは、この世の誰よりも麗しい方だということです。麗しいということは、ただ単に外貌をいうのではなく、その方の存在と命、その方の品性とすべてが 美しいということです。いかに偉大で成熟な人にも、暗いところがあって未成熟な部分もあります。また、経験すればするほど、失望するようになるのが人間ですね。しかし、私たちの花婿であるイエス・キリストは、誰よりも麗しい方で、誰よりも成熟な方で、絶対に私たちを失望させない方であります。だからその方が私たちの花婿であることを賛美しなければならないということです。
また、その方のくちびるからは恵みと優しさが流れ出ます。その方は権力と暴力で人を支配する方ではありません。その方の力は、愛と柔和から出て、その口から 出る恵みの御言葉によって人を感動させて、人が自発的に献身するようにされる方であります。私たちはその方の御言葉に従わなければなりません。しかしその方に服従するからといって私たちが無視されたり、みすぼらしくなるのではありません。むしろ、その方に従い、服従する時、私たちは、この世で一番尊い存在、最も価値ある存在になります。なぜなら、主に従う私たちを主が高めてくださるからです。だから、その方の花嫁になった私たちは、その方が私たちの花婿であることを、 喜び、賛美しなければならないということです。
3節です。
3 雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。
いかに私たちを愛する花婿だとしても、力がなければ花嫁を守ることができません。ところで、イエス様は、私たちには柔和で親切な方ですが、私たちの敵に対しては、尊厳と威光で、私たちのために戦ってくださる方です。
使徒ヨハネは、[イエス様が私たちを守っているから、悪い者が私たちに触れることさえできない]と言いました。私たちの花婿であるイエス・キリストは、私たちの ために戦ってくださり、私たちを守ってくださる方だということです。だから、 私たちは、キリストが私たちの花婿であることを誇らなければならないということです。
4節です。
4 あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。あなたの 右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。
韓国の番組の中で、問題のある夫婦が出るプログラムあります。その中のある人は、自分の妻を愛して、妻に親切にする人です。しかし、彼は、外に出ると人が変わります。他の人に悪口をして、起こって、相手を構わず喧嘩する人です。それで、 警察に捕まったこともありました。その妻の悩みは、夫の愛は嬉しいけど、他の 人の前で、夫の姿が恥ずかしいということでした。
イエス様は、ただ心理のために戦う方であり、すべての人に親切な方です。そしてその方は正義によって自分の民を治められる方ですから、その方の国の民、また、その方の花嫁になる人は、いつも、どこででもその方を尊敬することができ、その方が自慢になるということです。だから、その方の花嫁は、一番祝福された人だということです。
本文10節です。
10 娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
私は、うちの子どもたちのために祈る時、子どもたちの配偶者のためにも祈ります。誰よりもイエス様を愛する女、信仰の家庭で生まれた女、愛を受けることにも、 愛を施すことにも訓練された女、性格が明るいが、状況によって節制できる女、 すべてのことに祈りが生活になっている女など、10個以上の条件をもって、子どもたちに、こんな配偶者をくださいと祈っていますが、いつも最後にはこう祈ります。
[しかし、まず、うちの子どもたちが、そんな女性にふさわしい人になるように、 子どもたちを成長させてください。] なぜなら、夫婦は、水準があってこそ幸せになれるからです。
司会者として、花婿のキリストを褒めたたえたコラの子孫は、次に花嫁にこう言います。私たちの花婿なるキリストは、そんな方だから、これからは、主の御言葉に従い、主の御言葉を心に刻んで、いつもその方の御声に耳を傾けなさいと言います。
また、キリストの花嫁に、あなたの父の家を忘れよと言います。過去にあなたが どんな過程でどんな人生を生きて来て、また今まで、どんな息子に会ってどんなに付き合ったとしても、キリストの花嫁になった以上、もはや以前とは違う人生を 生きなければならないということです。すなわち、キリストにふさわしい花嫁に なれということです。
イエス様を信じて救われた私たちは、罪びととして生きた過去を切り出さなければなりません。主が喜ばれない悪い習慣も切り出さなければならないし、繰り返して犯した罪から離れなければなりません。良い人間関係のためにという言い訳で、 信じない者たちと一緒に楽しんでいた快楽を離れなければならないし、円満な社会生活のためにという言い訳で犯して来た悪いことを切り出さなければなりません。どこまで、変わるべきでしょうか。
コロサイ3章10節で、パウロが言います。
10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます 新しくされ、真の知識に至るのです。
行いと習慣のみならず、知識と心にまでイエス様に似た者として、キリストに ふさわしい花嫁になるべきだということです。
いつかイスラエルの結婚式について紹介したことがありますが、イスラエルの結婚式は、ヘブライ語で[라카흐]という結婚風習があります。花婿と花嫁が結婚する 前にぶどう酒を飲みながら、라카흐を行います。라카흐は、法的に夫婦として認められますが、まだ一緒に住むことはできません。라카흐を行ったら、花婿は花嫁と一緒に住む家を作るために、自分の父の家に帰ります。そして、花嫁は、結婚式で着る礼服を準備しながら花婿が来るまで自分の家で待ちます。
イエス様が、死なれる前に、聖餐式を通して私たちと誓いを結ばれました。それがキリストと教会の라카흐であります。そして、イエス様は、十字架にかかり、復活された後、すぐ来るを約束して天に昇られました。イエス様は、花婿として、 私たちと一緒に住む場所を用意するために、父なる神様に帰ったのです。それなら、花嫁の私たちは、主が来られる時まで何をすべきでしょうか。イエス様が来られる礼服を準備することが、花嫁の私たちのすべきことです。
それなら、私たちにとって礼服が意味することは何でしょうか。
黙示録19章8節です。
8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、 聖徒たちの正しい行いである。
キリストの花嫁が準備すべき礼服とは、正しい行いを意味します。私たちがイエスキリストの花嫁になるためには、正しい行いと考えと信仰を通して、キリストに ふさわしい花嫁にならなければならないということです。
花婿がいつ花嫁を迎えに来るかは、花婿の父だけが知っています。ある日の夜に、花婿の父が予告もなくいきなり花嫁を連れてこいと息子に言います。すると花婿は友たちと一緒にラッパを吹きながら花嫁を迎えに行きます。
もし、結婚式の準備がちゃんとできている花嫁であれば、花婿が来ることを喜ぶでしょう。しかし、まだ準備ができてない花嫁であれば、花婿が来ることを恐れる はずです。
皆さんは、どうですか。花婿が来ることを喜びながら待ち望んでいる花嫁ですか、さもないと花婿が早く来るのではないか恐れている花嫁ですか。
ぶどう酒を通して誓いを結び、夫婦になりましたが、結婚式が行われる時まで、 その結婚は、まだ完成ではなく進行形なんです。それと同じく私たちがイエス様を受け入れて救いの約束を受けましたが、私たちが持っている救いは、まだ進行形であります。
ピリピ2章12節で、使徒パウロは言います。
12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいる時だけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。
私たちは、キリストの花嫁として選択された最高の祝福を受けた人です。私たちを愛されるイエス様は、場所を用意するために天に昇り、すぐ来られると約束されました。今、この世界に行っていることを見れば、主が約束されたその終わりの時が本当に近づいていることが分かります。
それなら皆さんは、キリストを迎える準備ができていますか。いつ主が来られても喜んで迎えることができますか。
今でも遅くありません。キリストの花嫁としてふさわしい人になりましょう。 皆さんの心の中に、イエス様の恵みに対する感謝と喜び賛美が溢れ出るように、 毎日聖書を通してイエス様を知っていきましょう。祈りを通して、そのイエス様を生活の中で実際に体験しましょう。罪人の過去を離れて、正しい行い、正しい考え、正しい信仰を持って、花婿を迎える礼服を用意しましょう。
本当にイエス様は、すぐ来られます。慕い求める心を持って、花婿イエス様を待ち望む、のぞみ家族になることを、主の御名によって祝福致します。