25年3月23日_祝福と平安の道

説教と証し

神様がエジプトで奴隷生活をしていたイスラエルを救い出してくださいました。 そして彼らを祝福の地カナンに導いてくださると約束されました。私たちの考えに祝福の地と言えば、汗を流して働かなくてもすべてが豊かな環境で、みなが健康で、いつも喜びと平安を味わいながら生きる地を浮かべます。

ところで、祝福の地カナンは、本当にそういう所だったでしょうか。

残念ながら、そうではありませんでした。イスラエルがカナンの地に入りましたが、時には飢饉が訪れ、時には異邦人から苦しめられました。時には感染病のゆえに 多くの人が死んでしまいました。イスラエルは、祝福の地に入れば、当たり前に 祝福を受けて、幸せに住むことができると思いました。しかし、彼らは、祝福が 約束された地に住みながらも、祝福を味わうことはできなかったということです。いったいなぜでしょうか。

その理由は、イスラエルの民が祝福に対して思い違いをしていたからです。彼らは地が彼らに祝福を持ってくると思っていたし、その地で住むと当たり前に祝福を 味わいながら、幸せに生きられると思いました。しかし、カナンの地が祝福の地である理由は、その地が特別な地だからではありません。カナンの地が祝福の地で ある理由は、神様がそこにともにおられると約束されたからです。

すなわち、私たちに祝福を与えるのは、場所とか環境ではなく、神様が私たちと ともにおられると私たちがいつ、どこにいても祝福が伴うということです。だから良い学校に入学したり、良い会社に就職することが祝福ではありません。それらのことは、祝福とは関係がありません。神様が私たちとともにおられ、私たちが主の御言葉に従えば、神様が私たちがいるその場、私たちが通う学校とか職場を祝福の地にならしめてくださるのです。これがまさに、祝福の地の秘密であります。

カナンの地に入る前に、神様がイスラエルの指導者である、ヨシュアにこう言われました。

本文7節と8節です。

7 ただく、雄しくあって、わたしのしもべモセがあなたに命じたすべての  律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、      あなたが行く所ではどこででも、あなたがえるためである。

8 この律法の書を、あなたの口から離さず、も夜もそれを口ずさまなければ    ならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。    そうすれば、あなたのすることで繁栄し、またえることができるからである。

[すべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、 あなたが行く所ではどこででも、あなたがえるためである。]

神様がヨシュアに、そしてイスラエルの民に言われました。[もし]あなたがたが神様の御言葉を守り行って、神様だけに仕えると、あなたがたが祝福を受けて、 栄えるはずだ。すなわち、神様が私たちに祝福をくださると約束されましたが、 それを自分のものにして、自分の人生の中で味わうためには条件があるということです。それは、一番目に、神様の御言葉に従うこと、二番目に、神様を信じて、 主と認めること。これが私たちが神様の約束された祝福を味わえる条件だという ことです。

しかしイスラエルは、祝福を約束されたのにそれを味わえることには失敗しました。というのは、彼らが神様の御言葉を守り行わなかったということであり、神様を 信じることも、主と認めることもしなかったということです。それで、彼らは、祝福の地で住みながらも、祝福を味わえなかったということです。

神様が神様の御言葉を読んで、その御言葉を口ずさみ、その御言葉に従えば、  私たちのすることを繫栄させてくださり、私たちを栄えさせると約束されました。だから、皆さん、皆さんが神様を信じて、神様が皆さんとともにおられることを 信じているなら、皆さんが、どんな学校で勉強しても、またどんな職場で働いても、そして、そこで誰に会っても、皆さんがいるその場が祝福の地にあるのです。なぜなら、祝福の源である神様が、その時間、その場に私たちと共におられるからです。

また、皆さんが貧しくて生活の余裕がなかったり、皆さんが健康ではなかったり、いろんな理由によって皆さんが幸せになれない状況だとしても、皆さんが神様を 信じていれば、全能なる神様はその状況の中でも私たちを幸せにすることができる方です。だから、イエス様を信じる者は、環境とか状況のせいにしてはいけません。

イエス様に会う前は、私は、自分に与えられた状況に不平して、自分の人生が  不幸であることに対して誰かのせいにしたり、恨みながら生きました。しかし、 イエス様を信じた後、私が悟ったことは、そのすべてのことが自分のせいだということでした。すなわち、自分の不幸は、自分の罪と自分の間違った選択が作った 結果であることを悟ったということです。

自分が不幸せだと感じた時にも試練の中で苦しんでいた時にも、神様は相変わらず自分のともにおられたし、その時にも神様には、私を祝福される準備ができていたのに自分が現実を不平しながら、信仰によって生きられず、続いて間違ったことを選択しながら神様から遠ざかったので自分の人生が不幸になったということを、 イエス様に会った後に悟りました。

もし、私たちは、他の人のせいにしたり、不平しながら、自ら自分を不幸にして いるのではありませんか。自分が育ってきた環境が良くないから、うちの家庭が なごやかな家庭ではないから、自分の健康が良くないから、自分の前の現実が  大変だから、心に余裕がないから、自分を苦しめている人のゆえに、うちの親が 無能な人だから、妻が自分を無視しているから。このように、環境と現実のせいにしながら、信仰によって生きることをあきらめているのではないかということです。

私たちが神様の祝福を味わえなく、幸せになれないことは、状況と環境のせいではありません。私たちがイエス様を信じようとしないからであり、イエス様の御言葉に従うことも、イエス様を自分の人生の主として認めてないからです。すなわち、いかなる場合でも、またどんな問題が自分を苦しめても、自分を祝福して、自分を幸せにする方は、イエス様であることを悟ってこそ、私たちの人生に変化が起こり、祝福が臨むということです。

私が高校生の時、同じ教会で礼拝した私より一つ上の女の子がいました。その子はいつも祈りによってすべてを始めました。学校の授業が始まる前に、神様の助けを求めながら祈って、家で勉強する時にも先に祈って、テストを受ける時にも、まず祈りました。その姿を見ながら嘲笑る友たちもいたでしょう。祈る間、いたずらをする友たちもいたはずです。しかし、その子は、そのようにすべてのことにおいて、イエス様の存在を認めて、イエス様の助けを求めました。

その子が長く祈ったことでもありません。しかし、祈りの時間とか祈りの内容より重要なことは、彼女がその短い祈りを通して、みんなの前でイエス様の存在を  認めたということでした。その子のビジョンは、医者になることでした。結局、 その子は、韓国で一番良い大学に合格しました。ところで、驚くべきことは、その子は、元々文系だったし、大学も国文科に合格しましたが、神様の働きによって 医科大学に入るようになり、医者になったということです。

また、同じ教会で礼拝したある男の子は、大学で体育専攻でした。ところで、彼はある日、神様の御言葉を読んで、新しいビジョンを持つようになりましたが、その御言葉は、箴言11章25節の御言葉でした。

25 おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。

その日から、彼は、[他の人を潤す人生を生きる]というビジョンを持つようになり、卒業を一年残して専攻を変えてしましました。そして、卒業した後、財務設計士になって年収が5千万になりました。そして、他の人を潤す人生を生きることにした彼は、今まで集めた財産をもって、老人福祉施設を建てて今は寂しい高齢者たちを助けています。

良い大学に合格したり、多くのお金を儲けることが祝福だという話ではありません。神様は、生活の中で神様の存在を認める人、そして神様の御言葉を信じて従う人を必ず祝福されるという話であります。

今、話したあの二人は、私たちと違う人でしょうか。神様が彼らを特別に愛されて彼らだけを祝福されたでしょうか。そうではありません。神様は、彼らだけでなく、私たちも同じく祝福しようとされる計画を持っておられます。しかし、違いは、 信仰と御言葉に従う態度にあるのです。彼らは、神様を主と認めて、主の御言葉に従うことによって、その祝福の約束を実現させたのです。

本文5節と6節一緒に読みます。

5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。  わたしは、モセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしは      あなたを見放さず、あなたを見捨てない。

6 くあれ。雄々(おお)しくあれ。わたしが彼らにえるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継(つ)がせなければならないからだ。

神様は、イスラエルの民が、カナンの地に適応して異邦人たちと同じ人生を生きるように彼らを遣わされたことではなく、彼らとの競争から勝って、もっと優れた 者にならしめるために遣わされたことでもありません。むしろ神様は、神様の力によってその地を征服して、占めさせるために遣わされました。

それと同じく、イエス様が私たちを、この世に遣わされたのは、適当にこの世に 適応しながら、世の人々と同じく生きるように遣わされたのではありません。主は私たちが、イエス様の御名の権勢とイエス様の力によって、征服して占めさせる ために、私たちを世の中に遣わされるのです。

それなら、私たちは、どうすれば、私たちがいるその場をイエス様の御名によって征服できるでしょうか。

ファーアンドアウェイという映画を見れば、アメリカの西部開拓時代に国家で地を配分する競争を行います。誰でも自分が願う地に先に旗を刺せば、その地は自分の地になります。

祈りというのはその地が神様の地であることを宣言する行為であります。皆さんがどこに行っても、一番先に祈ることによって、その地がイエス様が統治される、 イエス様の地であることを宣言しましょう。

また、周りに大変な人がいる時には、彼らに近づいて、彼らを慰め、愛を助ける ことによって皆さんが神様の子どもであることを人とサタンの前で証明しましょう。

次には、皆が従うことだとしても、イエス様が喜ばれないことであれば、勇気を 出して断ることによって、皆さんが主を恐れる人であることを、イエス様の御前で表しましょう。

最後に皆さんのいる所と、皆さんが出会う人々を主の御名によって祝福しましょう。なぜ、彼らを祝福しなければならないでしょうか。彼らの中には私たちを迫害して、憎んでいる人もいるのに、なぜ、あえて彼らを祝福しなえればならないのかということです。

へブル7章7節は、こう語っています。

7 いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。

霊的世界の秩序は、上位の者が下位の者に祝福するということです。私たちが世の中で出会う人を祝福することは、 霊的世界のおいて私たちの霊的権威と霊的秩序を正すためです。社会では先輩とか、上司であるかもしれませんが、私たちが彼らを祝福すれば、その時から私たちが霊的権威を取って秩序を正すようになることです。

祈りによって、その場にイエス様の統治を宣言して、人を祝福することによって、霊的権威と秩序を正さなければなりません。その後、愛を実践することによって、私たちはかしらになることができます。なぜなら、イエス様は、マルコの福音書で、[かしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。]と言われたからです。そして、主のいかなる場合でも御言葉に従うことによって、私たちが 主を恐れ、愛する人であることを表しましょう。

そうすることによって、私たちはこの世の支配を受けることではなく、主の御名によって、私たちがいるその場を征服できるようになるのです。

説教をまとめます。

神様は、天にあるすべての霊的祝福をもって、すでに私たちを祝福してくださいました。私たちに残ったのは、その祝福を自分のものにすることです。現実と状況に不平して、自分の不幸に対してすべての人のせいにしても、絶対に幸せになれません。

祝福のカギは、神様が持っておられます。毎日の生活の中でイエス様が自分の主であることを認めて、いつもイエス様の御言葉に従うことによって、主が約束された祝福を実現させるのぞみ家族になることを心から祈ります。

また、世の人よりもう少し優れたものになろうとせずに、むしろイエス様の御名によって、皆さんのいるその場を征服することによって、皆さんのいるその場を祝福の地にするのぞみ家族になることを主の御名によって祝福致します。