今日は、のぞみ教会創立25周年礼拝を捧げています。25年間、いろんなことがありました。感謝なこともあり、悲しく、大変な時もありました。しかし重要なことは、99%がイエス様を信じなく、どんな国よりも霊的戦いが激しい日本の地で、25年が過ぎた今まで、イエス様を信じる者たちがこの場に集まって一緒に礼拝を捧げて いるということです。神様がのぞみ教会を守ってくださったすべての恵みに感謝を捧げます。
のぞみ教会のために献身して協力してくださった多くの方がいます。のぞみ教会の創立者の李先生と金先生、そしてのぞみ家族みんなが、教会のために奉仕して祈りながら、この教会のために協力してくださいました。ところで、のぞみ教会の25年歴史の間、一番大きな役割をした方は、誰でしょうか。
3節です。
3 彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。
イスラエルが430年間奴隷生活したエジプトを離れました。紅海を陸地のように渡り、追いついて来るエジプトの軍隊が紅海で全滅しました。何もない荒野で40年間 生きながらも、着物がすり切れなく、足もはれませんでした。また、食糧がなくて飢えたり、寒くて苦しむこともありませんでした。
40年間の荒野の生活が終わりましたが、だからといってイスラエルに戦いの準備ができていたのではありません。しかし、それでも彼らはカナンの巨人たちに勝って、カナンの地を征服しました。コラの子孫が覚えている、イスラエルの歴史と栄光が偉大で、素晴らしかったということです。しかし、多くの試練と奇跡の中でコラのくだした結論は、これでした。
3 彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。
誰かの優れた力とか、誰かの献身と犠牲によって、イスラエルがそのすべてを得たのではないということです。神様が恵みを授けてくださったから、このすべての 恵みと祝福が与えられたということです。すべてが神様の恵みであり、神様の なされた御業だから、ただ賛美と栄光を受けるべき方は神様だけだということです。
のぞみ教会が25周年になるまで、多くのことがありましたが、私たちが主の御前で告白できる一つは、すべてが主の恵みだったということです。
人間はいかに素晴らしいと言っても、ただ人間に過ぎません。私たちが持っているものの中で、自分のものがありますか?神様が健康と力をくださらなかったなら、私たちが奉仕することができたでしょうか。神様が祈れる与件と信仰をくださら なかったなら、私たちが祈れるでしょうか。今日、私たちが持って来た献身は、 誰がくださって、どのように得ることができましたか。私たちが毎日、退屈だと 感じるほど、繰り返される日常生活を味わえる、この安定的な生活は、誰がくださった恵みですか。神様が許してくださらなければ、私たちが持っている恵みと祝福の中で、一つも自分のものだと言えないということです。だから、誰も主の御前で自分の何かを誇ってはいけないということです。
私たちは、この地に生きる間、何か偉大なことをしたり、歴史の主人公になれる ことではありません。私の周りには、人生が大変で苦しんでいる人たちが多いです。周りに大変な人が多いから、悲しみの中で、主にこう祈ったことがあります。
[主よ、私の周りに大変な人が多いけど、彼らを助けることができなくて悲しいです。私に多くのお金をくださったら、私が彼らを助けます。私にお金をくださっても、それを人を助けることに使うことを、神様も知っておられるじゃないですか。]
私は、本気でその祈りを捧げたし、答えても答えなくても、その祈りを神様も 喜ばれると思いました。しかし、神様が私の心におっしゃいました。
[あなたが主人公になりたがる、心を下ろしなさい。]
その話を聞いて衝撃を受けました。すなわち、神様は、すべての人を愛しておられ、それぞれに対する人生の計画をもって彼らを導いているのに、私が前に出て神様の働きを妨げるなという話でした。自分が良いと考えることが、神様の御前では、 必ずしも良いことではないかもしれないということです。
それなら、私たちの人生を何で比喩することができるでしょうか。
ある先生が祈りながら、神様に、[神様、人生とは何でしょうか。] という質問を したことがあるそうです。すると神様がその先生に幼いころの記憶を浮かばせた そうです。先生が幼いころ、お母さんがもやしと豆腐を買ってくるように、お金を与えてお使いをさせたそうです。ところで、もやしと豆腐を買いに行った子どもの前に、多くの誘惑が待っていました。そこには、アイスクリームもいたし、パンとお菓子もありました。しかし、お母さんからもらったお金で、お菓子を買ったら、お母さんが任せた任務を遂げることができません。それで多くの誘惑を振り切ってお母さんの言葉の通りに、もやしと豆腐だけ買って家に帰りました。そして自分が多くの誘惑を振り切って、自分の使命を成し遂げたという喜びをもってお母さんに話しました。
[母さん、おっしゃったとおりに、もやしと豆腐を買って来ました。]
人生とは、何なのか尋ねる先生に、神様が幼いころの記憶を浮けばせながら、こう言われたそうです。
[人生とは、わたしがあなたに頼んだことを成し遂げて、再び私に戻ってくること なのだ。]
人生とは、それが大きいことであれ、小さなことであれ、神様が自分に任せてくださったことを成し遂げて、主のみもとに戻っていくことだということです。
私たちは、歴史の主人公ではありません。イエス様が歴史の主人公であり、この 世界は、結局主の御心と計画の通りになるんだということです。私たちの思いには自分が持っていることが大きいと思われ、自分がしたことがすばらしいと思われるかもしれませんが、私たちが持っているそれ、そして、私たちが自慢するそれは、もやしと豆腐を買ってくるように、お母さんがくださった小さいお金のようなものだということです。
私たちが100年もならない人生の中で、偉大な成功をなして、人々に認められるからといって、それが、永遠の神様、全能なる神様の御前では、どれほど大きな意味があるでしょうか。私たちは、自分を誇らないで、神様を誇るべきであり、自分が 主人公になろうという欲を捨てて、イエス様を自分の人生の主人公としなければ ならないということです。そして、大きいことであれ、小さなことであれ、主が 任せてくださったことに忠実な人生を生きれば、それが、私たち人間にとって、 最善の人生であり、一番祝福の人生だということです。
本文9節です。
9 それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。あなたはもはや、私たちの軍勢とともに出陣なさいません。
コラの子孫がこの詩を書いた時、イスラエルは戦いから負けて、国を失いとりこになっていた状況でした。詩篇の記者は、自分たちの現実が理解できませんでした。神様がイスラエルを選ばれ、救われたし、多くの奇跡を通して彼らを守っられ、 彼らのために戦ってくださったのに、今はイスラエルが神様から捨てられたような気がしました。
残念ながら、人間は、愚かな存在だから、持っているものを失った後に、自分が 持っていたものが大切なことであることを悟ります。 愚かなイスラエルは、神様の恵みと奇跡の中で生きる間には、それが恵みであることも、奇跡であることも 知りませんでした。そして彼らは結局それを失ってこそ涙を流しながら後悔します。それなら、今、私たちは、彼らとは違う人生を生きていますか。
しかし、私たちには、まだ希望があります。神様が相変わらず私たちの希望である理由は、私たちは神様を忘れても、神様は絶対に私たちを忘れることがなく、 私たちは、あきらめても、神様は私たちに向かう計画をあきらめない方だからです。
本文1節です。
1 神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。
[あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。]
神様がイスラエルのためになさったことは、聖書に記されています。エジプトを 裁いてイスラエルを救ったこと、紅海を分けてイスラエルを導かれたこと、十戒をくださったことなど、主がイスラエルになさったことが聖書に書いてあります。 しかし、主が恵みを授けたり、祝福されたことだけが書いてあるのではありません。イスラエルが偶像に拝んだことで、三千名が殺されたこと、神様を疑うことにより、40年間荒野で住むようになったこと、主の命令に従わなくて異邦人との戦いから 負けたことも書いてあります。
ところで、コラの子孫は、いろんなことがあったのにも、[主がなさったみわざ]と単数で表現しています。というのは、神様が民に恵みを授けてくださったことも、民を懲らしめられたことも、同じ一つのみわざで思っているということです。 すなわち、民を救われて、祝福に導かれることも、民を懲らしめることも、民に 対する神様の救いと祝福の偉大な計画の一部だということです。これは、私の考えではなく、キリスト教の偉大な指導者アムブロスという人が話したことです。
私たちの人生のすべてを知っておられる神様は、私たちのための最善のことが 何なのかを知っておられるから、私たちをみこころの通りに導かれるのだという 信仰を失ってはいけないということです。
神様が私たちが祈った通りに答えてくださらなくて、神様の愛を疑っていますか。皆さんに大切な何かを失って、神様を恨んでいますか。神様が苦難をくださるからといって神様は思ったより良い方ではないと思っていますか。それなら、私たちが持っていて、味わっている多くのものは、一つ一つ皆さんが直接求めて、神様からいただいたものですか。
宣教師は、本国の教会と支援者たちから宣教費をもらって生活するから、宣教費とレートの影響を受けます。最近トランプ大統領のゆえにレートが上がって、彼が どれほど憎いか知りません。
何年前に、韓国の宣教会から、宣教費を30%ぐらい減らすという連絡がありました。その連絡をもらってしばらくの間、心が苦しかったです。いかに計算しても生活が赤字でした。
それで、心配しながら神様に祈っている間、神様がこう言われました。
[あなたが今、味わっていることの中で、当たり前のことがあるか。]
考えてみると、私は、今まで、誰かに助け求めがことも、韓国の教会に行って、 支援を要請したこともありませんでした。信仰があるからではなく、元々それが できないタイップです。宣教師は、教会に助けを求めなければ、支援を受けない ことが当たり前です。だから、私を知っている先輩宣教師たちが、あいつ宣教地で、飢え死になるのではないか心配するほど、私は対策がない人間でした。しかし、 神様の話を聞いて振り替えてみたら、今まで当たり前ではないことを、当たり前に感じられるほど、神様が恵みを授けてくださって、自分は、主が授けてくださる 当たり前ではない恵みを味わいながら生きてきたということを悟りました。神様が私におっしゃったのは、[あなたが求めなくても、私が満たしたから今まで生きたのではないか、それなのに、あなたは、どうして今、不安になっているのか]という 話でした。
私たちが神様に祈っても受けなかったことより、求めなかったのに受けて味わっていることがずっと多いです。私たちにあるべきことが何か、すでに知っておられる神様は、求めなくても必要なことを備えてくださる方です。というのは、私たちが求めても答えてくださらないということは、それが、私たちに必要なものではないからであるかもしれないし、神様の計画の中で、最善の時ではないかもしれないし、もしかしたら、私たちが求めたことよりもっと良いものを与えようとする神様の 計画があるかもしれません。
詩篇44篇23節です。
23 起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。
コラの子孫は、神様に祈ります。
[主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。]
福音書を読んでみれば、弟子たちが船に乗って、ガリラヤ湖を渡っていましたが、いきなり強風が吹きました。1/3が漁師出身だったので、彼らは自分の力と経験で 克服できると思いました。しかし、何をしても失敗して船が沈没危機に陥りました。自分たちでできないということを悟って、彼らは船で眠っておられたイエス様を 起こして助けを求めました。するとイエス様がことば一言で、海と風を静まらせたと聖書は語ります。
私たちが人生の主人公になろうとすれば、こんなことが起こります。その日、一番大きな問題は突然吹き付けた強風ではありませんでした。イエス様を主人ではなく、お客さんみたいに取り扱ったことが問題だったし、弟子たちが主人公になろうと したことが危機の原因でした。自分の力があっても、豊かな経験と知恵があっても、イエス様は、いつも私の人生の主人の所に立って、主人公の役割をしなければなりません。その日弟子たちの選択と行いの中で、最もよくしたことは、イエス様を 起こして主人の所に立たせ、すべてのことをイエス様に委ねたことです。
信仰を持って、正しく生きる人にも、苦難にあうことがあります。しかし、
ローマ8章28節は語ります。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
神を愛する人々、神様が愛される人々に起こるすべてのことは、それが良いことであれ、悪いことであれ、私たちに対する神様の祝福の計画の一部だということです。そして、そのすべてのことを働かせて、神様は必ず私たちを祝福に導いてくださるはずです。
私たちのすべきことは、
一番目に、主が授けてくださった恵みを覚えながら感謝すること。
二番目に、主の愛と計画を信頼すること。
三番目に、主を自分の人生の主人公にすることです。
すると、神様が私たちに起こるすべてのことを働かせて私たちを最善の道に導いてくださるはずです。主を信頼しながら、その方が授けてくださる恵みの中で生きるのぞみ家族になることを、主の御名によって祝福致します。