25年3月9日_主が望んでおられること

説教と証し

詩篇43篇を読んでみれば、詩篇42篇でコラの子孫が自分の信仰を告白した内容を 同じく告白している部分があります。それで、聖書学者たちは、詩篇42篇と43篇は、一つの詩を二つに分けたものか、或いは同じ人が同じ時期に作った詩だと言います。明らかなことは、詩篇43篇を書いた人も、悔しいことをされた人で、信仰によって祈ったことが答えられなかった人だったし、霊的な危機にあった人だったという ことです。そういう理解を持って、詩篇43篇を調べてみたいと思います。

本文2節です。

2 あなたは私の力の神であられるからです。なぜあなたは私を拒まれたのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いてき回るのですか。

 

私たちは、悔しいことをされたり、信じて祈ったことが答えられなかったり、  失敗が続いたら、神様の前で自分のアイデンティティーを失って疑う時があります。今まで神様は自分の神だと信じていたのに、まるで神様が自分を忘れてしまった ように感じられ、神様は自分の味方ではない方のように感じられ、神様が他人の ように感じられる時があるということです。

こんな時こそ私たちが覚えるべきことがありますが、一番目に、神様の主権です。神様と自分の位置を覚えなければならないということです。一言で、自分が神様の主人ではなく神様が自分の主人であることを覚えなければならないということです。神様は私の願いと必要を知っておられますが、私の願いと必要に合わせて働かれず、すべてを神様の御心と時間と計画にあって満たされ、働かれるということです。 これを通して私たちは、自分の主人は神様であり、自分い何が最善のことなのかは神様だけが知っておられるということを学ぶようになるのです。

次に覚えるべきことは、神様は、自分の合わせて働かれるということです。体に 良いからといって生まればかりの赤ちゃんにプロポリスとかビタミンを飲ませてはいけないでしょう。また運動すれば健康になるからといって3歳の子どもにハーフ マラソンをさせる親はいません。親なら、子どもが消化できるものだけを食べさせ、子どもの体の成熟度に合わせて運動をさせなければなりません。そうしなければ、良いことがむしろ毒になります。

自分の人格と信仰の成熟度と霊的な状態を知っておられる方は、神様です。だから神様は自分の状態に合わせて自分の人生を導かれるということです。時には自分の願いの通りにしてくださらないことが恨めしい時もあります。自分が望んでいる 時に答えてくださらない神様の愛を疑う時もあります。しかし、私たちが絶対に 忘れてはいけない事実は、何が何でも神様は、私の神だということです。この詩を書いたコラの子孫も、神様がなされることが理解できず、神様に対する恨めしい 心を持って祈りました。しかし、それでも彼は、[神様は、私の神だ]という信仰 だけは忘れませんでした。

 

子どもたちが友たちと遊んでいることをみれば、よく聞こえる言葉が、     [これ、うちのパパのものだ] という言葉です。

[これ、うちのパパの本だ。それ、うちのパパの車だ。] と言いながら、友たちに 触るなと警告します。もし、友たちがパパのものに勝手に手を触れたり、持って 遊んだりすれば、喧嘩が起こります。ところで、果して子どもは、パパとパパの 物を守るために戦うのでしょうか。そうでは、ありません。子どもはパパのものは、全部自分のものだと思っているから戦うのです。パパが持っている良い物は、全部自分の物であり、自分にだけ許されたものだと思っているから友たちがパパの物に 手を触れたら、それは、自分の物に手を触れることと同じことだと思います。今はパパの物だけど、自分が願ったらパパがくださるはずだし、いつかは自分の物に なると信じているから戦うことです。

私たちには、こんな信仰が回復されなければなりません。私たちが神様を、私の神、私の父と呼ぶのなら、神様にあるすべての良いものは全部自分の物であり、自分のために備えられたものであり、自分にだけ許されたものだという信仰がなければ ならないということです。今は、自分の祈りが断られたみたいで、すべての状況が自分の味方ではないように感じられるかも知れませんが、神様にある全ての祝福と恵みは、子どもの自分のために備えられたことで、それを味わえる資格があるのは、自分であり、いつか必ずそれが自分に与えられるだろうという信仰がなければならないということです。その信仰を持って神様の愛を信頼しながら、再び祈りの所に行かなければならないということです。

私たちが祈ったことが答えられなく、私たちが信仰によって始まったことが失敗 したからといって、神様の御前で私たちの価値が落ちたり、私たちに対する神様の愛が変わったことではありません。

ある宣教師の証しですが、その宣教師は、息子を宣教師として訓練させて高校生の時、他の宣教地に遣わしました。その年に宣教地に行ったから、いろんな失敗と 苦難を経験したでしょう。しかし、自分の失敗と過ちによって、お父さんの顔に 泥を塗るのではないかというストレスが一番苦しかったです。

 

息子が宣教地で大変だという話を聞いて、その宣教師が息子を会いに行きました。そして、息子にこう話したそうです。

[よく、聞いて。あなたが成功して、誰かに褒められるようなことをして、人々から認められる時、あなたは、確かに我が息子だ。しかし、あなたが自らも赦せない ほど大きな失敗をしたり、罪を犯したり、なにかによって悲惨な状況になった時、その時、あなたは、さらに我が息子であることを忘れるな。]

息子にこれを話して家に帰る時、飛行機の中で神様が、その宣教師の心の中に、 同じ話をしてくださったそうです。

[あなたが成功して、認められる時、あなたは我が息子だ。しかし、あなたが失敗 したり、罪を犯したり、悲惨になった時、あなたは、さらに我が息子だ。]

私たちが何か神様に認められるほど、良くしたことがあるから、私たちが神様の 子どもになったことではありません。私たちが失敗して、罪を犯した時にも、  私たちは相変わらず神様の子どもであり、神様の喜びです。この世の何も私たちに向かう神様の愛を変えることはできないということです。

ある人は、神様を信じる自分が、病気になったり、失敗すれば、神様の栄光を覆うと思います。ある人は、祈ったことが答えられなければ、人々が神様の存在を否定して、嘲笑うのではないかと心配します。ある人は、自分が罪を犯したり、人々が失望するようなことをすれば、自分が神様の栄光を覆うと思って、自分の弱さを 隠そうとします。

ところで、いったい誰を心配しているのですか。そんなことで覆われる神様の栄光であれば、神様を信じる必要があるでしょうか。私たちの祈りが答えられないからといって神様として認められない神様であれば、その方を信じるべき理由があるでしょうか。罪を犯した私たちを理解して、赦してくださらない神様であれば、  どうしてその方が、私たちの希望になれるでしょうか。

 

 

民数記23章19節です。

19 神は人間ではなく、りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか

神様を一人の人間のように考えてもいけないし人間の概念で理解してもいけません。神様は、人ではなく、神様の考えは、人の考えと違うから、神様は罪人の私たちを選択されたことも私たちのために命を捨てたことも後悔されません。また私たちを愛されるという神様の御言葉は一瞬も嘘ではありません。そして、神様は私たちを離れなく永遠にともにおられるという約束を必ず守ってくださる方です。神様は、永遠に変わらないのに、私たちのうちにある不信仰が、そして、神様を人のように思う勘違いが、神様を愛もなく、冷たく、怖い方に思わせるのです。そして神様に対する間違った知識のゆえに、私たちは神様の御前で自分の価値を疑うようになるのです。

バレーボールというスポーツは手でボールをつかめばいけません。相手がボールを送れば、そのボールをつかまずに、攻撃する人にトスします。すると攻撃する人がそのボールを当てて、相手を攻撃することがバレーボールです。

祈りはバレーボールに似ています。サタンと現実が私たちを攻撃すれば、私たちはそれをイエス様が処理してくださるようにイエス様にトスします。それがまさに 祈りであります。

Ⅰペテロ5章7節です。

7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

使徒ペテロは、私たちの思い煩いを神様にゆだねなさいと言いました。何度も申し上げましたが、[委ねる]という言葉は、ヘブライ語で、[上に向いて投げる]という意味を持っている単語です。祈りは、自分が持っている問題と思い煩いを神様に 向いて投げ捨てることであり、神様にトスすることだということです。

 

私たちは、いろんな問題と心配を持って神様に祈ります。ところで、時には祈ったことが、願いの通りに答えられない時があります。その時には、どうすれば分からないほど、慌てるようになります。神様を解決してくださり神様が良い道に導いてくださることを信じたから祈ったのに、祈りが答えられない時には、慌てるようになるということです。しかし、祈りはトスであり、祈りは神様に向いて問題を投げ捨てることです。というのは、祈ったなら、その時からそれは自分の問題ではなく神様の問題になるんだということです。そして、それとともにその問題に対する 責任も神様のものになります。

しかし、そんなことを知らなくて私たちが思い煩うことでもなく、苦しんでいる ことでもありません。神様に委ねて、もう思い煩わないと決心するからといって 本当にそれができることではないということです。信仰というのは、いきなり  天から落ちることではありません。信仰というのは、信じようと努力して従う者に与えられる恵みの賜物です。

ヨシュアとイスラエルの民が荒野の生活を終えて、カナンの地を征服するために、ヨルダンの川を渡らなければなりませんでした。その時は雨期が終わった後だから川が溢れこぼれていたし、川の流れが速くて危ない時でした。ところで、神様は、契約の箱を負っている祭司たちが、先に川の中に入ることを命じられました。  神様は、彼らが安心して川を渡れるように、流れを止めてくださったでしょうか。流れを弱らせてくださったでしょうか。

そうではありません。川の流れは相変わらず速くて、こぼれていました。神様の 御言葉の通りにしなければならないことを知ってはいましたが、ヨルダンの川を 渡ることは現実的に不可能なことだったということです。祭司たちは怖かったはずです。まだ、彼らには完全な信仰はありませんでした。しかし彼らは、主の命令に従って、命令の通りにして死ねば、それまでも主が責任を負ってくださるだろうという心でヨルダンの川に入りました。

 

 

ところで、彼らが命令に従って川の中に入った瞬間、川の水がせきとめられて、 祭司のそばで壁のように積もりました。そして、イスラエルの民がヨルダンを渡ることができました。この奇跡を通して祭司たちの不完全な信仰がなくなって神様を絶対的に信頼する完全な信仰が与えられました。聖書には書いてないですが、もし神様が同じ状況に同じ命令をくださっても、祭司たちが恐れたでしょうか。信仰はそのように与えられるということです。

私たちが神様に信仰を求めれば、天から信仰が落ちることではなく、信仰を持つ 機会をくださるということです。私たちが神様の御言葉を信じることを決心して、その御言葉に従えば神様が働かれ、神様が働かれることを見れば私たちが持って いる不完全な信仰が完全な信仰になるのです。

7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

私たちに思い煩いを神にゆだねなさいと言われたのは、私たちにそれが可能だからそう命じられたのではありません。私たちには思い煩いを委ねることも、それを 下ろして平安になることも不可能であることを知っておられますが、それでも主を信じて、主の御言葉を握って従うことを主は願っておられるのです。その従いを 通して私たちに信仰を与えることによって、主にあって平安を味わわせることが 主の御心だということです。

本文5節です。

5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ私の前で思いれているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の   神を。

詩篇43篇は、神様を賛美しながら終わります。コラの子孫の問題と試練が終わったでしょうか。彼の悔しさが晴れたり、彼の祈りがドラマチックに答えられたでしょうか。彼は相変わらず同じ状況にありました。状況と現実は、何も変わりません でしたが、彼の希望が変わって、問題を扱う彼の観点が変わって、神様に対する 彼の信仰が変わりました。すると彼の嘆きの歌が賛美の歌に変わったのです。

神様が本当に私たちに望まれること、そして与えようとされるのは何でしょうか。

ある子どもがパパと一緒に道を歩いていました。ところで、あの前で大きい犬が荒々しく吠えていました。子どもは怖くてパパの手を握って歩きます。パパの手を握っていても犬が吠えているという現実は同じです。しかし、パパが自分とともにいて、自分を守っている限り、犬は吠えることはできても自分に害を与えることはできないということを知るから、子どもは犬の前を通り過ぎることができます。 自分を守ってくれるパパがそばにいれば、自分の前に100匹の犬が吠えていても、 問題にならないということです。すなわち、犬がなくなってこそ、自分が平安と 幸せを味わえることではないということです。犬があっても、問題があっても、 険しい現実の前でも、私を愛される神様が、自分とともにおられるという事実が 信じられると、いかなる場合でも平安と幸せを味わえるということです。神様が 子どもの私たちに本当に望んでおられること、私たちに与えようとすることが、 こんな信仰だということです。

問題がないからといって幸せになることではありません。試練が終わったからと いって平安が訪れることでもありません。私たちの希望はただ神様にあります。 私たちに平安と幸せをくださる方は、ただ神様だけです。そういうわけで私たちの礼拝の目的は、神様に会うことにならなければなりません。神様に会えば、今まで私たちを苦しめて、私たちを絶望させた私たちの問題と苦しみと弱さと現実が力を失います。神様の恵みを臨んだら、[自分がこんなことで、こんなに苦しんで恐れていたのか] という気がするほど、すべての否定的なことが力を失ってしまうということです。神様は、子どもたちが、そうなることを望んでおられるということです。

皆さんには、どんな問題と苦しみがありますか。皆さんを苦しめて、へこませる 皆さんの現実は何ですか。もし、その問題と苦しみがなくなったら、幸せになれるでしょうか。その現実が解決されれば、平安を味わうことができるでしょうか。 もしかしたら、私たちは、間違った答えを捜しているのではないでしょうか。

幸せになり、平安を味わうことを願っているなら、その問題の答えは、イエス・ キリストにあります。

神様にとって皆さんがどんな存在なのかを忘れてはいけません。この世のなにも、神様の御前で皆さんの価値を下げることができなく、皆さんに対する神様の愛を 変えさせることはできません。

皆さんが、成功して、誰かに褒められたり、人々から認められる時、皆さんは、 神の子どもです。しかし、自らも赦せないほど大きな失敗をしたり、罪を犯したり、何かによって皆さんが悲惨な状況になった時、皆さんは、さらに神の子どもであります。

新しい一週間も神様の愛と恵みの中で、平安を味わい、幸せになるのぞみ家族に なることを、イエス・キリストの御名によって祝福致します。