本文1節です。
1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
詩篇42篇は、コラの子孫が書いた詩ですが、神様に対する慕いあえぐ心を鹿に比喩して書いた詩であります。イスラエルは、雨が多い国でもなく、水が多い国でも ありません。イスラエルの小川をワディと言います。普段は谷間ですが雨が降るとしばらくの間小川になる所をワディと言います。それで、獣たちには、水の流れるワディを探すことが、生き残るためにとても重要なことです。
鹿という動物は、猛獣(もうじゅう)とか猟師(りょうし)から自分を守るために、自分の跡形を隠し、足音も殺しながら静かに生きる動物です。ところで、本文い出て来る鹿は、渇きによって苦しんでいる鹿した。本文の[慕いあえぐ] という言葉は、ヘブライ語で[泣き叫ぶ]という意味を持っている単語です。水を飲めない渇きのゆえに苦しくて泣き叫び ながらワディを探している鹿だということです。
ワディを見つけた鹿の目には、ただ水しか見えません。前に猛獣が持っていても、猟師が狙っていても、水に向かって走って行くのが水を慕いあえぐ姿だということです。そして、コラの子孫は、その鹿のように神様に対する渇きのもって泣き叫びながら神様を捜していると告白しています。
彼らは、なぜ、そんなに神様を慕いあえいでいたんでしょうか。
聖書学者たちは、詩篇42篇を書いた時は、ダビデがアブシャロムを避けて逃げた 時に書いた詩であるかも知れないし、バビロンも負けてとりこになった後に書いた詩であるかもしれないと話しています。いつも聖なる宮で神様を賛美し、礼拝した彼らは、主の宮での礼拝ができなくった、その現実のゆえに悲しくて辛かったです。
韓国の教会では、たまにワールドカップとか重要な試合がある時、教会に集まってサッカーを見る時がありますが、特に教会では、サウジアラビアのようなイスラム国家との試合がある時、負けてはいけないという熱情が燃え上がります。
韓国は、宣教をする国で、相手はイスラムです。さらに、韓国のチームは、たまに選手とか監督が試合の前に神様に祈る場面が出て来ます。だからまるで霊的戦いをする気持ちでサッカーを見るようになります。
私たちの考えの通りであれば、神様は韓国の味方であり、その試合は勝たなければなりません。その試合で勝ったら、まるで神様の力によって勝利したように、また善と悪の戦いから正義が勝利したように喜びます。実は神様はサッカーの勝負など関心もないのに、自分たちで勝負欲に燃え上がることですね。
ところで、時には、イスラム国家との試合で負ける時があります。そんな時には、何か裏切られたように心が苦しくて信仰まで揺るぐ時があります。まるでサタンに負けたように気がして、[いったい神様は、どうするつもりでおられるか]神様の 御心を疑う時もあります。
イスラムとのサッカーで負けても、こんなに衝撃を受けるようになるのに、本文で神の民が戦いで負けて、神の民が異邦人のとりこになったという現実を、彼らが どう理解して、受け入れることができるかということです。そんな苦しみの中で 書いた詩がまさに詩篇42篇だということです。
私たちも時には、当然に答えられると信じながら祈ったことが、答えられない時もあり、神様の喜ばれることだという確信を持って何かを行ったのに、失敗する時があります。そんな時には、失望になり、衝撃も受けるということです。
そうしたら、そんな時には、どうするべきでしょうか。
本文2節と3節です。
2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、 神の御前に出ましょうか。
3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。
私たちが試練にあった時、信じない人たちによく聞く言葉は、
[おまえの神は、どこにいるのか?]、[神様を信じて後、あなたの人生によくなったことがあるのか?]、[サウジアラビアに負けたぜ?おまえの神は寝ていたの?] こんな話ですね。神様を信じない者たちは、自分に奇跡を見せてくれれば、神様の存在を認めると言います。しかし、奇跡とか成功はイエス様を見つめさせることはできるが、イエス様を信じさせることはできません。
イエス様がこの地に来られた時、多くの人がイエス様が起こさせる奇跡を見ました。彼らは、イエス様が悪霊を追い出し、病人を治しながら奇跡を見せてくださる間は、イエス様に付き従いながらイエス様を褒め称えました。しかし、イエス様が奇跡をやめるとイエス様を褒め称えた者たちが、イエス様を十字架につけるように叫び ました。
モーセを通してエジプトを離れたイスラエルの民は、人類の歴史上、一番多くの 奇跡を経験したし、奇跡を見ることが日常生活でした。昼には雲の柱が、夜には 火の柱が民を守ってくれて、毎日天から降るマナを食べました。武器もなく、訓練された兵士もなかったのに戦いから勝利しました。それなら毎日奇跡の中で生きたイスラエルの民は、素晴らしい信仰を持っている信者になったでしょうか。
そうではありません。目の前で素晴らしい奇跡を経験したのにも彼らは神様でなく金の子牛の偶像に拝んで、神様の愛を断ってエジプトに帰ろうとしました。そしてついに彼らは、神様を信じることができず、同時代を生きた人の中、二人を除いてすべての人がカナンの地に入れず、荒野で死んでしまいました。奇跡は、私たちをして、神様を信じさせることができないということです。
ローマ10章17節で、パウロは語ります。
17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての みことばによるのです。
イエス様の御言葉だけが、私たちに救いに至らせるような信仰を与えて、神様に 頼れる信仰を持たせるということです。だから、私たちは、いつも神様の御言葉に近づき、主の御前に行く日まで、御言葉を読んで学ばなければならないということです。
神様を知らない者たちは、自分の願いが成就され、自分の努力が成功したという 理由で自分が信じる神がまことの神だと言います。彼らには自分の能力が神であり、自分の知恵が神であり、自分の経験と自分が選択した方法が彼らの神であります。彼らは、私たちに神様はいないと言いながら、自分が信じる神を信じて、自分の ように生きることが正しいと言います。自分の知恵に従って自分の方法を選択せよと言います。ところで、本当に悔しいことは、私たちには彼らを説得させるような証拠がない時が多いということです。私たちには、彼らにある成功がなく、彼らが認めて納得できるほどの祝福の証拠がありません。神様の恵みを証ししても彼らは理解もできず、ただ私たちの信仰を嘲笑うだけです。こんな状況の中で、コラの 子孫は、生きておられる神様の恵みを求めながら祈りました。
2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、 神の御前に出ましょうか。
彼らの人生が正しく見えて、祝福の道のように見えても、私たちは彼らの話に従うことができません。なぜなら、彼らが信じる神、彼らが仕える偶像には、命がないということを私たちは知っているからです。
しかし、それでも、神様が私たちに沈黙され、神様が生きておられるという証拠を人々の前で表されないから、私たちとしては苦しいことも事実です。それでコラの子孫は、水を慕いあえぐ鹿のように、泣き叫びながら生きておられる神様の恵みを探し求めているのです。
ところで、もし、私たちがこんなことのゆえに苦しんでいたら、それも神様の恵みであります。信じない者たちの前で自分の信仰のゆえに悔しいと感じたり、霊的な渇きのゆえに苦しんでいるということは、一方では、自分の魂が生きているという証拠だからです。
生きている人であれば、生きているという反応が現れるに決まっています。例えば、息ができないと辛くて、目に光が入ったら瞳孔が収縮する反応が現れます。また、冬に小便をしたら体温が落ちるから体温を維持するために、体を震わせる現象が 現れ、反対に体温が上がれば汗が出て体を冷ましてくれます。そして、眠い時にはあくびが出て、酸素は吸い込み、二酸化炭素は吐き出します。そして、その時出る涙が目を浸して眠りを覚まします。これが、生きている人に現れる反応だという ことです。
私たちの体にいろんな反応が現れるのは、時には苦しかったり、不便であったり するかもしれませんが、それらは、私たちの体を守るために現れる反応であります。体に水分が足りないのに、渇きが感じられなかったら結局水分不足によって危ない状態になるでしょう。私たちの体に現れる反応と痛みは私たちの体に訪れた危機を警告する印だということです。
ところで体にだけこんな反応が現れるでしょうか。そうではありません。私たちの魂にもこんな反応が現れます。罪を犯したら心に恐れがあり、祈らなければ理由もなく不安になります。礼拝に失敗し恵みを受けなければ、霊的渇きを感じるようになり、簡単に怒ったり、心と言葉が否定的に変わってしまいます。それで、いつも不平不満を言うようになります。こんな反応は、自分の魂に危機が訪れたという 警告の印だということです。
それなら、私たちの魂に危機が訪れた時、また、私たちの魂が渇いて苦しい時、 そして、神様の恵みが感じられなくてうなだれるようになった時、私たちは、 どうすれば良いでしょうか。
本文6節です。
6 私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンと ヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。
人間に霊的な危機が訪れて人が堕落するようになる理由は、主が授けてくださった恵みを忘れたからです。というのは、神様の恵みを回復して霊的な危機を克服するためにすべきことも、神様が授けてくださった恵みを覚えることだということです。
韓国では、主の恵みを失って、霊的な危機に会った人たちが、祈祷院という所に 行きます。そして、祈祷院で一日中礼拝して、夜通し祈りながら、失ってしまった主の恵みを回復します。神様の恵みを経験して、神様との思い出がある所に行って神様を捜し求めるということです。
コラの子孫は、傷ついて、悲しい心を持って神様との思い出がある所に行きました。ヨルダンの川岸で泣きながら悔い改めた、その時を思い出して神様に祈りました。ヘルモン山で雪に降られながら夜通し祈った、その時を思い出して主に祈りました。ミツァル山で預言者の御言葉に恵まれた時を思い出しながら主の恵みを求めました。
皆さんが神様に出会った、皆さんのヨルダンはどこですか。祈りを通して神様と 交わった、皆さんのヘルモンはどこですか。神様の御言葉に恵まれて、涙で信仰を告白した、皆さんのミツァルの山はどこですか。
今、霊的な危機の中にいるとすれば、魂の渇きで苦しいとすれば、自分の思いの 通りになることがなくてうなだれているとすれば、神様との思い出がある所に 戻って行かなければなりません。神様の恵みを経験したその所に行かなければなりません。なぜなら、その渇きと苦しみをくださった方も、神様だからです。神様は、私たちに恵みを注いでくださるために、そして、私たちを回復させるために、 私たちに渇きと苦しみをくださって、恵みの場で私たちを呼んでくださるという ことです。
コラの子孫は、大変で苦しい現実の中にいました。しかし、彼らは、戦いから勝利することも、バビロンから解放されることも願いませんでした。彼らは、ただ 神様の顔を見ることを願ったし、神様の恵みを祈り求めました。なぜなら、それが、自分にとって一番重要な問題であることを知っていたからです。戦いで勝利しても、現実から解放されても、神様の恵みがなければ、その苦しみと渇きは終わらないということを知っていたからです。
私たちに神様の恵みが渇いたら、すべてが苦しみになります。しかし、神様の恵があれば、荒野の中でも幸せを味わうことができます。
主の恵みが渇いた時、ヤコブにとってエサウという存在は、妬みの対象であり、 敵でしたが、神様の恵みを受けた後にエサウに会うとヤコブの目にエサウの顔が 神様の顔のように見えました。
兄たちに売られてエジプトの奴隷になったヨセフにとって兄たちは憎みと憤りの 対象でした。兄たちのことが忘れられなくて、長男の名前を[忘れた]という意味のマナセと付けるほど兄たちを赦せませんでした。しかし、神様の恵みを悟った後に兄たちにあると、兄たちに対する愛が我慢できなくて、先に走って行って兄たちを抱いて泣きました。
私たちには、関係が良くない人もいて、憎むべき理由が確実な人もいます。しかし、私たちの心が神様の恵みに満ちていれば、憎むべき彼らさえも神様のように見えるということです。だから、私たちは神様の恵みを慕い求めなければならないということです。
説教をまとめます。
今日の説教を一言で整理すれば、[私たちは、神様の恵みがあってこそ生きていける] と言うことです。私たちの心に主の恵みに満ちていれば、周りの人の言葉と行動に影響を受けません。主の恵みに満ちていれば、イエス様だけで満足できます。主の恵みに満ちていれば、荒野の真ん中でも天国を味わうことができます。
私たちには、何よりもイエス様の恵みが必要であることを悟らせるために、時には環境と現実が私たちを苦しめる時があります。時には人々の言葉と行動が私たちを苦しめる時もあります。しかし、私たちを苦しめるのが、現実でも、周りの人でも、それらが私たちに警告するメッセージは明らかです。
[神様との恵みの所に持って行って、神様の恵みを回復せよ] と言うことです。
健康の危機を悟った人は、食事を調節したり、体を暖かくして、健康を守ろうと します。それと同じく、魂の危機を悟ったら世の楽しみをやめて、御言葉に近づき、罪を悔い改めながら、恵みの場に行かなければなりません。そして、慕いあえぐ 鹿のように、神様の恵みを慕い求めなければなりません。
新しく始まる、この一週間、私たちに訪れた試練と苦しみが、私たちに何を話しているかよく考えながら、神様の恵みを慕い求めるのぞみ家族になることを、主の 御名によって祝福致します。